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今回はコーチングとはどういったものなのかを説明しようと思います。
コーチングとは何かを一言でいうと、「ゴールを達成するお手伝い」ということになるかと思います。
では、なぜコーチングを受けるとゴールが達成されるのか?
まずはなぜゴールが達成されないのかを考えてみましょう。それは「私はゴールを達成することができない」というブリーフシステムを持っているからです。
コーチは「ゴールを達成することができる」というブリーフシステムに書き換えます。このことをコーチングというのです。どうですかシンプルでしょう。
しかし、この説明だけでは「どうして初めて会った人にそのゴールが達成されるなんてことがわかるんだ!」「その人のことを知らないじゃないか」という声が聞こえてきそうです。
では、逆に質問です。
あなたはどうしてゴールが達成されないと思っているのですか。できないという根拠を示すことができますか?
もちろんできない理由はどんどん浮かんでくるかもしれません。しかしそれは絶対ですか、それが正しい、絶対だと証明できますか。その境遇を乗り越えて成功している人と自分の違いを、自分が心から納得できる説明をすることができますか?
コーチングを支えているのは巨大な理論体系です。私の理論体系はルータイス、苫米地博士の理論に依るものです。
そのコーチングの結論として、「できると思ったことができること」というプリンシプルがあります。
このプリンシプルだけです。
できると思えばゴールは達成されるのです。できるというブリーフシステムになってしまえばなんてことなく、ゴールは達成されるのです。
あなたが今までどんな過去を持っていようが、どんな境遇だろうが、そんなことはゴールを達成されるか否かとは関係がないことを我々コーチは知っているのです。
だからそんなに深くあなたの過去を知らなくても、自信を持って「できると思うよ」ということができます。
そして、不思議と人は心からできると思う人が隣にいるとゴールが達成されてしまうのです。
これがコーチングというものです。
諦めるということは「私にはできない」ということを受け入れるということです。諦めずに達成したいゴールは持つほうがいいと思います。その方が人生は楽しくないですか。だってできると思えばできるのですから。
これが人の可能性は無限であるということです。
コーチングは無限の可能性に気づいてもらうことであり、無限の可能性を求めて新しい自分への冒険をしていく人のために応援をすることだと思っています。そしてそのコーチングの効果というものも計り知れないものだと思います。
人は普通に生きていると情報空間の存在を感じることはあまりないのかなと思います。
しかし、実はそんなことはなく我々人間は当たり前のように情報空間の中で存在しているのです。
昨日、お風呂に入っていました。追い炊きのスイッチがオンになっていたのでどんどんとお風呂が熱くなってきました。まだ大丈夫かな、まだ大丈夫かなと様子をうかがっていたのですが、だめだ、これ以上熱くなりすぎると気持ち良さが半減してしまうとのことで、追い炊きスイッチを切りました。
ちなみに文字にするとまるで気持ち良さが半減してしまうと意識的に考えていたように思えるかもしれませんが、今回はそんなことはなくほとんど無意識的になんか熱いな~ぐらいでした。
このことを冒頭の話に置き換えてみると
スイッチをオフにしたことが物理的な世界での作業です。
人はこれらのことにしかあまり気を払っていないのではないかということです。
しかし、その前に熱いから気持ちいい温度にしようというイメージがあったわけです。
その結果、スイッチをオフにしたのです。
当たり前の話ですが、でもきちんと情報が先で物理はその結果だと認識することはとても重要です。
でなければ我々は情報の操作で夢を叶えることができる、自分を変えることができるといったこともつい忘れてしまうものです。
脳は先にイメージをします。そしてその結果、選択したことを行動に移すのです。そしてその行動の結果が今、あなたの置かれている現状ということです。
ですから、行動を変えるのではなく最初のイメージを変えることが夢を叶えたり、自己実現を叶えたりするのです。
お風呂のお湯の気持ちいいイメージが先にあったから、スイッチのボタンを押したのです。
イメージを変えてみましょう。
そしてその後の行動はそのイメージ通りに無意識が勝手に行動することになり、そのための努力などは一切必要ないのです。
年末になり、慌ただしい毎日を過ごしている方も多いのではないでしょうか。
私も年末ということで、大量の本を整理してみました。
本は趣味でもあるので、いつのまにか量が増えてしまいます。量が増えると、本棚の奥と手前の両方におくようになって片づけでもしない限り、奥の本を読み返すことは絶対になくなります。
ですから、本棚を増やすか本を処分するかの選択になるのですが、家の都合上無限に増え続けそうな本をストックできるようなスペースの確保はやはり難しいです。
ということで処分を選択しました。
残す本と処分する本、これらをどう分けるか。
皆さんも同じようにされていると思いますが、自分にとって重要な本と重要でない本の選別をします。
我々の自我も同じで私が私だと思っている私とは本来、空なのでこれ!と取り出すことのできないものです。すると私とは何々だという情報で私を定義しています。
その情報は本の選別と同じように重要であるかどうかが振り分けの基準となっているのです。
自分にとって重要であると思っている事柄の集合が自我だということです。
そんな視点から、本棚を見てみると本棚は考え方を形成しているものでもあり、自我を形成しているものであるといってもいいと思います。だから誰かに本棚を見られるとちょっと恥ずかしかったりするときもあるのです。
その本棚を整理すると、自我を整理しているような気分になりとても気持ちがいい。
本棚だけではなく、家の整理や整頓をすると自分の頭の中が整理されることなので、定期的な整理は欠かせないことですね。
皆さんも年末に向けて物理場と情報場の整理をして、新しい年と共に新しい自我を手に入れて欲しいと思います。
包摂半順序束のトップが空であるという説明をした。
そして自我は宇宙に対して自分を頂点とした重要性の順番で並んだ部分関数だという話もした。
情報量の大小で並べた順序集合のトップも空なら、自我という頂点も空である。
これがこの世も空だし、自我も空であるということなのである。もう少し簡単にいうとこの世は幻想であり、これが私だと強烈に思っているような私はあるとも言えるしないともいえるような空なる存在であるということだ。
この話は我々にどんなインパクトを与えるのだろう?そんなことを考えてみたい。
仏教の出家者やよほどの哲学好きでないかぎり、空のことなんか考えたことはないかもしれない。しかし、古来から人間の意識を考えてきた賢人たちのふるいにかけられ残ってきた空という概念は我々に大きな気づきを与えてくれるはずだ。
結論から言うと苫米地理論というか苫米地博士の教えでは中観で生きるために空という概念を知った上でこの世界を認識するこの世の見方すなわち空観が欠かせないといっている。中観とは空観をわかったうえで仮であるこの世界(仮観)を全力で生きる生き方こそが現代に生きる我々の最高の指針であるということだ。
その意味でも空は徹底的に知る必要がある。まずはこのことを頭の隅にでも置いておいてほしい。
ただ中観の話は違う機会にするとしてコーチングにおける空という概念の重要性をここでは考えてみる。
コーチングにおいてもゴールの臨場感をイメージするうえでも空という概念はとても役に立つと思っている。なぜならゴールが達成されないのは現状のホメオスタシスが強くて引き戻されてしまうからという理論があったことを思い出してほしい。その時にゴールの臨場感を強力にするには現状という世界そのものが幻想であるという意識を持てば、なんだ、同じ幻想ならゴールが達成された方がいいじゃんと無意識も思いやすいということだ。
みんな誰でも現状に対して強烈なリアリティを持っている。その強烈なリアリティとはこの世界が幻想ではないというリアリティである。
悩みがあるとする。悩みがあると思っているから悩んでいるのだから、つまり悩みなんて幻想だなんて思っていないということだ。
世界が空であり、自我も空である。
しかし、空である世界も自我も自分が作り出しているのも事実だ。現状もゴールも自分が作り出した空なる世界、幻想の世界だからこそ、無意識はゴールを選択できるのだと思う。
いかにこの世は自分が作り上げた空なる世界と思えるかどうか。
コーチングにおいても、自由に楽しく生きるというテーマにおいても非常に重要な概念である。
4回にわたって苫米地博士の言葉を借りて形式定義をやってきた。
みなさん、だから何やねん!と思っているかもしれない。
実際、周りでも面白くないなどと言われた。
だから、何のために、結局何が言いたかったのかをこれから説明していこうと思う。
古来から人々は悩み、苦しみ、変わりたいと思いながら生きてきたと思う。そして多くの人が過去にどうすれば人は幸せに生きれるのかを考えてきただろう。
そして、偉大な哲学者や宗教者、それに数学者、物理学者、芸術家を生み出してきた。
私は苫米地博士もその一人だと思っているので、熱心に学ばせてもらっている。
2600年前に釈迦が悟ったとされている。そして悟った内容が空というわけだ。そしたらみんなが空ってなんですか?と釈迦に聞きたかったのだと思うが、釈迦は空については語らず、縁起という説明原理を説いたとされている。空は説明することは難しく、縁起という説明原理を通して空にたどり着いてもらいたかったのだろう。しかし釈迦は月を指さして、月(空)を見よ。指している指(縁起)を見るなと言っている。つまりみんなに説明原理の方ではなく、空の体感こそが悟りであると伝えたかったのだ。
現代科学では、相対性理論から量子論の時代になり、ひも理論の時代になった。この現代でも釈迦が悟って教えたかった空というものが量子論やひも理論の帰結と同じであるとのことから空という概念は改めて注目されるようにもなった。
それほど貴重な空という概念。
だからこそ我々は空という概念を知り、そして体感できるようになる必要性を感じるはずなのである。
現代では空を悟るのは誰でもできる時代になったと苫米地博士は語っている。
空を悟ったうえでどうやって生きるのかが問われるということだ。
だからまずは空という概念を徹底的にマスターしようということで、形式定義から入ってみた。
形式定義はなんとなくそんなもんねーとして捉えてくれたらいいです。正直私も、数学や哲学のプロフェッショナルじゃないので深い知識は持ってません。
しかし、大切なエッセンスはここからきちんとつかんでもらいたいと思っている。
続く
苫米地博士の宇宙の形式定義をしたうえで、今回は空の形式定義をやっていこうと思います。
包摂半順序束の宇宙において任意のふたつの概念もしくは存在をとりだします。
その二つの概念もしくは存在のGLBをbottomといいます。
そしてその二つの概念もしくは存在のLUBをtopといいます。
包摂半順序束の宇宙のbottomとはなんでしょうか?
これを現代分析哲学では矛盾と定義します。
そして包摂半順序束の宇宙のtopのことを空と定義するのです。
例えば、ペンと犬という二つの存在をとりだして、そのふたつの下位概念を考えます。ペンなのにワンと鳴く存在。ワンと鳴くのに書くことができる存在です。これを矛盾と表現するということです。下位概念の内のもっとも下位にあるものを矛盾というのです。
またペンと犬の上位概念はどうでしょうか?
現代分析哲学ではこれはいくらでもあるので特定の概念が存在しないとされているようです。
しかし、苫米地博士は東洋の仏教哲学を使って、これを空と定義すると言います。
空とは宇宙の何よりも上位であり情報量の少ないもの。
包摂半順序束のtopであり、宇宙の全てを潜在的に内包しているものとして、定義しているのです。
前回宇宙の概念は包摂半順序という説明をしました。
今回は束という数理モデルで宇宙の定義を拡張します。
順序集合において、任意の二つの要素をとりだして、共通の上位にあるものをUpper Bound、日本語で上界といいます。そしてUpper Boundの内で最も下位にあるものをLUB(Least Upper Bound)最小上界といいます。
<犬、猫、動物>という半順序集合があったとき、犬と猫の任意の二つの上位概念は動物です。
ですからこの場合は動物がUpper Boundであり、LUBとなります。
反対に任意のふたつの要素をとりだして、共通の下位にあるものをLower Bound、日本語で下界といいます。そしてLower Boundの内で最も上位にあるものをGLB(Greatest Lower Bound)最大下界といいます。
<シュナウザー、犬、ペット>という順序集合があったとき、情報量の大小で見て、ペットと犬の任意の二つの下位概念はシュナウザーですから、この場合、シュナウザーがLower Boundであり、GLBとなります。
このように順序集合もしくは半順序集合の内でLUBかGLBのどちらかもしくは両方が最低一つはある順序集合のことを、束といいます。
宇宙は包摂半順序集合であると定義しましたが、宇宙の概念にはLUBとGLBがありますので宇宙は包摂半順序束であると定義することができるということです。
宇宙と言えば、地球や太陽や銀河系やなどといったイメージがわくかもしれません。
しかし、ここで定義しようとする宇宙はそのような宇宙を含んだ、我々の脳内で認識されたすべての概念のことです。
地球や太陽といった宇宙は物理宇宙。苫米地理論において定義しようとする宇宙は情報空間にも無限に広がっていますので、一番低い抽象度の宇宙が物理宇宙で概念となって無限に広がる情報宇宙までの形式的定義です。
というか、認知科学においては物理宇宙も情報宇宙もどちらも結局は脳内で情報処理されて認識されたものであるという点において内部表現という言い方をし、同じものとしてみなします。
ですから物理宇宙から情報宇宙までの宇宙の定義としてとらえてください。
これを包摂半順序という集合論という数理モデルを使って説明します。
包摂順序とは情報量の大小で並べられた上位、下位の関係のことをいいます。抽象度は高くなればなるほど情報量が減っていき、低くなるほど情報量は増えていきます。
ただし、抽象度が高くなればなるほど情報量は少なくなりまが、そこに入っている潜在的な情報量は多くなっています。
例えば(ブルドッグ、犬、哺乳類、生物、有機物)とどんどん抽象度をあげていくとブルドッグの情報量よりも有機物の情報量のほうが少なくなるのですが、有機物は生物も哺乳類も犬もブルドッグもフォルダに入っているので潜在的な情報量は多くなるというのはこのような意味です。
そして半順序というのは自然数を並べた時に(1,2,3,4,5・・・・・・・)ときちんと並べることができる完全集合という意味に対して、中にあいまいな要素があり、どちらともいえないようなものも含むがだいたい並べることができる集合を半順序と言います。
ブルドッグの例でいえば、(ブルドッグ、犬、猫、ペット・・・)と並んでいた場合に情報量の大小で並んでいるのかな。でも犬と猫ってどちらが上かな。みたいな集合です。
我々の認識の宇宙は情報量の大小で並べられた半順序集合であるというわけです。
そして次の束論のはなしとつながっていきます。
苫米地理論における自我の定義
自我とは宇宙の中から自分を定義する部分関数である。
宇宙に自我という関数を入力すれば私が出力されるということです。
これと同じ表現をして例えるなら自然数における偶数という概念があります。
自然数に偶数という関数を入力すれば(2,4,6,8,10・・・)が出力されるのと同じです。
では、自我という部分関数の中身とはなんなのか?
それは私にとっての重要性で並べられた情報のことです。
私は兵庫県に住んでいて、親はだれだれで、兄弟は何人で、好きな食べ物は何で、どこどこの学校出身でなどと、私を定義する情報のネットワークを自分にとって重要な順番に並べ替えます。
そして例えば、好きな食べ物がプリンだったとしたら、プリンという情報のネットワークもまた多数存在し、そのネットワークは無限に広がっていきます。
その無限のネットワークの中で、自分にとって重要な順番に並べられた情報の中心点が自我ということになるのです。
自我の説明を試みた時に、自分にとって重要な情報をあげることはできますが、自我自体の説明をすることができるでしょうか。これが自我が点と同じようなものであるといわれるゆえんです。
ユークリッド幾何学の定義における、円に対しての中心点とは面積のないものです。ですから、これ!といた存在をとりだすことができません。
また同じく、線分の端にしても存在していることは間違いないのですが、線分の定義は幅がないのですから、これ!とその存在をとりだすことはできないのです。
ですから、同じように自我もとりだすことのできるようなこれ!といったものがなくただ自我という中心点に向かって重要性の順でならんだ情報の集まりであるといえるわけです。