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コーチングという言葉が結構、普及してきたような気がする。
しかし、まだまだ、コーチングという本当の意味が理解されているようには思わない。
ルータイスと苫米地英人博士が作り上げてきたコーチングという本当の意味を考えてみたいと思う。
世の中には色々な職業がある。しかし中でもコーチという職業は稀有な職業だと思う。
金銭のやり取りがあるような職業は、ふつう自分が欲しいものを手に入れるために何か人に依頼することによって成立する。
たとえば、医者なら病気を治してほしいという依頼にこたえる。弁護士なら紛争を解決してほしいという依頼にこたえる。工務店は家を作ってほしいという依頼に答える。学校や塾の先生は知識を教えてほしいという依頼にこたえる。
ほとんどの職業はクライアントの目的が先にあってそれを叶えることが仕事である。
ではコーチングという職業はどうだろうか。
コーチングの目的はクライアントのゴールを達成してもらうこととゴールを設定することが仕事となる。
何が違うのか?
コーチング以外の仕事のほとんどはその人に代わって代理で仕事をしてくれる。
しかし、コーチングはあくまでもクライアント自身が変革するためだ。変わったクライアントがゴールを達成する。自分自身が行動をする側である。先ほど例にあげた職業は行動するのは相手側だからこの点で大きく異なるといえるだろう。
行動するのがクライアントなら一体コーチは何をするのか?
コーチはクライアント自身でゴールを達成しようとしたときにおこる障害を取り除く。人は自分自身の無意識の行動を全てコントロールはできていない。恐らく相当できていない。ゴールを達成しようとしたときにおこっている無意識の領域の世界を認識できていない。コーチはクライアント自身では気づいていないゴール達成への行動を阻害しているものを取り除く。スコトーマとなっているものを見つけ出し、見せてあげる。
コーチングとはそういうものであり、コーチの仕事とはそういうことである。
コーチングとはクライアント自身がゴール達成への行動するうえで、一人ではできないことのお手伝いという仕事である。だからゴール達成という仕事をするのはあくまでもクライアント自身。しかし、よくよく考えると当たり前だ。ゴールや夢は自分自身のものであり、自分自身で叶えるから意味のあるものである。
ただ、今までは科学的に、また職業として、そのお手伝いをするという職業は存在していなかった。その役割を担っていたのは親や教師や友人であったかもしれない。ただ、親や教師や友人は、コーチングのトレーニングを受けて親や教師や友人になったわけではないので、ゴール達成のお手伝いができるわけがなく、彼ら自身の思想を刷り込むことになり、かえってドリームキラーとなっていた可能性が高いと思う。子供に関して言えば、その影響で夢なんてかなうものではないという一般的な思想ができあがっていたようにも思う。
しかし、現在はコーチングはルータイスと苫米地英人により職業として生み出され、多くの人がコーチングという言葉は少なくとも知っているような時代になった。その背景には心理学から認知科学までの心を扱う学問がかなり、発展を遂げたという事実があるのは確かである。
私はこのことをとても画期的なことだと思っている。
自分自身の人生は思い通りに描くことができるという発想が人々のこころに根差し始めているのだから。
まだまだ誤ったコーチング理論や偽物コーチがあちこちにいる。しかしそれもコーチングの広まりがあってのことなので良い時代の到来の兆しなのかもしれない。
私や私のコーチ仲間はルータイスと苫米地英人博士から直接本当のコーチングを伝授された数少ないコーチであるから、このことをきちんと自覚して多くの人に本当のコーチングを知ってもらうために活動していこうと、書きながら強く思った。
こんにちは。苫米地式コーチング認定コーチ山本敦志です。
3月26日(土)1時半から3時までワークショップを開催します。
内容はホメオスタシスについて。
ゴール設定をした。そして一通りのコーチング理論をやってみた。でもなかなか変わることができない。
現状のホメオスタシスに引き戻されているな気がする。
このような状況にある人に是非きいてもらいたい内容だ。
ホメオスタシスは生体だけではなく情報空間にまで広がっているというサイバーホメオスタシス仮設を指針として話をすすめていく。
ゴール達成ができないのもホメオスタシスのせいであり、
ゴール達成ができるのもホメオスタシスのおかげである。
ホメオスタシスは良いものでも悪いものでもなく、あるひとつの現象である。大切なのは自らの力でホメオスタシスの力をコントロールすることである。
簡単に言うと、ゴールの臨場感を上げて、私はゴールを達成しているという未来の記憶側にホメオスタシスを働かせてしまえば成功だ。
しかし、コンフォートゾーンを維持したいと思う自我により、ホメオスタシスの移行がうまくできないケースがあるようだ。それがなんとかならないかということを考えてみる。
今回はこの内容を4、5名でワークショップ形式で行う予定。1、2名なら空きがあるようです。そのほかにも時間内でできるだけ多くのコーチングのことについて考えてみる場としようと思っています。
興味ある方はホームページから問い合わせてください。
今日はビジネスコーチングについて考えてみたい。
私は建設設備関係の会社を親から引き継ぎ経営している。そして最近新たにコーチングの会社を立ち上げた。
そんな立場からコーチングとビジネスの関係について考えてきた。その帰結を皆さんとシェアできればよいなと思う。
普通の会社、何と言えばよいのだろう?一般的な会社?レガシー企業?とにかく今までの企業だ。この仕組みとは、まず、大前提として資本主義の元で成り立っている。株主が企業に投資をしたお金を資本として、企業は利益の最大化を目指すために存在している。そしてその為に経営者は売り上げを上げ、利益を上げることを目的とし、従業員を雇い入れ、設備投資をし、目的を果たそうとする。そして従業員は生命時間を提供して、それと引き換えに給与をもらう。労働者の目的はこの給与となる。
会社はそれだけじゃないとそれ以外にも色々なことがあるのに、そんな簡単に言われたら困る!と思うだろうか?
だから今回はプライオリティという概念をいれたい。企業にとってプライオリティは様々かもしれないが、基本的にはほとんどの企業が前述のことを最重要事項として存在しているのではないか。
簡単に言うとお金だ!今までの企業はほとんどがお金に焦点を当てている。株主も、経営者も、労働者も、そしてその周りにいる家族ですら、企業に求めているものはお金だ。
資本主義とはお金主義のことであり、その影響は企業を通じて、人々にお金が絶対であるという思想を植え付けている。
だから、今までの企業とはお金を軸としている。プライオリティはお金が一番高いということである。
それに対して、コーチング導入企業はというと、プライオリティが生産性にある。お金に焦点をあてるのではなく、生産性に焦点が当たっている。
まず、お金に焦点が当たっていないという点だ。
企業が営利活動であるにも関わらず、お金に焦点をあてないなんてことができるのか?そう思われる方も多いのではないか。私自身非常に悩んだテーマである。しかし、今はできると思っている。
まず報酬、給与に関していえば、報酬、給与の為に働くのではないというメンタリティを持っており、給与はあくまでも生活の安定を図るもであるという考え方が必要だ。
企業を組織している、個人が、経営者も従業員も、お金の焦点を外していなければならない。職業はお金のためではなく、それぞれの職業としてのゴールと合致しているからその労働活動を行うわけであり、決してお金のためであってはならない。
働く人それぞれが働くことにお金以外の意味を見出している。もっといえばやりたくてしかたないことになっている。
それぞれがやりたいことをやっているわけだ。それが生産性に繋がる。これは当たり前だが、やりたいと思ってやっている人と、やらされてやっている人では生産性は雲泥の差が開く。データとしては利益ベースで実に700倍の差があるという。驚きの数字だ。
それほどにやりたくてやっているのと、やらされてやっているのでは、違いがあるのだ。
コーチングにおいて、最も重要とする概念はWANT TOである。資本主義のもとの企業が最も重要とする概念はOKANEである。
この違いが全てだ。
さて、ここで問題だ。
果たして、焦点をお金から外すことに成功できる人がどれほどいるだろうか。
私は自分の経験上、次から次へとお金の焦点を外すことに成功する人が続出するとは期待していない。お金が欲しくて欲しくてたまらないという呪縛は人間の奥深くまで入り込んでいるように思う。
しかし、このブログを見た人はもちろん、お金の焦点を外すことができるようになったと思う。マイノリティだが圧倒的に有利な考え方を手に入れたと思ってほしい。
企業もOKANEではなく、WANT TOに焦点を当てさえすれば生産性があがり、利益もあがるのだから是非コーチングを導入してほしいと思う。ただし、利益は結果なのであって、利益を上げるためにコーチングを導入するというのはOKANEに焦点があたっているということなので本末転倒!それよりもひとつ高い抽象度のゴールがリーダーにあるということが前提になる。益々ハードルが上がってしまったかもしれないが、大丈夫!このブログを見て心が揺れたというのであれば、それは一つ上の抽象度のゴールがあるということだ。是非とも見つけ出してほしい。
また、この転換は劇的なパラダイムシフトであり、全く違う次元の招待であるから、それに伴う、変化は覚悟しておく必要があるということも付け加えておく。
お金の焦点を外して、一つ上の抽象度のゴールを見つけ出した企業だけが、これからの時代を独走していくのは間違いない。
今日は知識について考察してみたい。
俗に馬鹿というやつが馬鹿なんだ!なんて言葉をよく耳にする。今日の説明もこの言葉の証明といってもよいかと思う。私も馬鹿というやつ、若しくは自分を賢いと思っている人ほど馬鹿の可能性が高いと思っている。
それがなぜかということだ。
この宇宙は物理宇宙と情報宇宙から成り立っている。古来。この宇宙のカラクリを解き明かそうと人間はチャレンジしてきた。その成果が様々な学問として伝わっている。それを学んでいく機会を設けることを教育と呼んでいる。
私たちは教育を受け、また様々な経験をしてこの宇宙のカラクリのほんの一部分を知っている。知っていることが知識にあたる。
この宇宙のカラクリを全て知るということは全知全能の神を目指すということになる。私たちは何もそこまでいきたいとは思わないまでも、そんな存在になれたらななんて憧れを抱く。
知識とは一般的にはあると賢いとみなされる。
ないと馬鹿とみなされる傾向があるように思う。
しかし、知識がある人に限って、自分を賢いと思っている人に限って、知りたいという欲求が少なくなってくる。
逆に知識がなくても知りたいという欲求を持っている人は成長をしていく。
そのように考えると知識があるからよい、ないから駄目だとは簡単に言えないことに気づく。
この宇宙ははるかに巨大な情報宇宙であって、全情報を知るとことはとんでもなく難しい。仏教用語でいえば、空を知る。悟るということだ。それは至難の業である。
私たちの場合の知識とはその巨大な情報宇宙の中のほんのほんの一部分を見ることができるだけの知識ににも関わらず、それを賢いと思って、学びをやめてしまえば、そのほんのほんの一部部の情報宇宙が全てだと思う、お山の大将となってしまう。
そちらの方が馬鹿と呼ぶにはふさわしい。
コーチング的にいえばコンフォートゾーンの中で偉そうにしているやつになってしまう。スコトーマだらけの人間になってしまう。私たちはコンフォートゾーンの外にゴールを設定するというルールを知っている。そしてゴールが近づくと新たなゴールを設定するというルールを知っている。
ゴールが近づくと新たなゴールを設定するということをよく考えてみると、永遠にゴールを目指しているという状態である。すなわち死ぬまでゴールを追いかけているということになる。
知識もそうでずっと学び続けることが大事なのだ。
決して、知った気になってはいけない。
知った気になった段階で馬鹿になる。
私たちは巨大な宇宙を探求していくが、その宇宙ははるかに巨大だ。簡単に到達できる場ではないが歩んでいく。知るために歩んでいく。全てを知ることができずに終わるかもしれないがそれでも知るために歩みを止めない。
私も昔は大馬鹿野郎だったと思う。臆病なくせに自分を過信し、限られたコンフォートゾーンの中で偉そうにふるまう人だった。だからこそ今は馬鹿にならないように心掛けている。全てが学びの場であり、そこには自分のスコトーマに隠れた新しい情報があるのではないかという視点を常に維持できるようにしている。だから多くの人や物は私に新しい情報を与えてくれるので、常に新鮮で感謝である。
私たちは馬鹿にならないために無知に気づかなければならない。
そして少しづつでも成長していくことが喜びである。成長に向けた歩みそのものこそが喜びなのである。
私がコーチングセミナーを開催したときのはなしだ。
セミナー会場は市の公共施設を借りて計画していた。するとそのセミナー会場の受付に連絡があり、私が開催するセミナーは洗脳されそうで怖い、そんなセミナー開催させないで欲しい。と言われたらしいのだ。
当時はコーチになってまだ間もない頃で、セミナーも初めての開催であった。だから私自身がドキドキし、きちんと話せるだろうか、興味を持って聞いてくれるだろうか、などとこちらが相手の評価を気にしていたころだ。(もちろん今では気にしなくなったが。)
私はそれを聞いて唖然とした。なぜ夢を叶えるための方法を教えるセミナーが怖いのか。
もちろん、私の師である、苫米地英人はオウム事件に関わったし、洗脳研究についての第一人者である。
しかしそれでも、コーチングのセミナーが怖いとは理解できなかった。
セミナーは大絶賛され、来てくれた方は大いに喜んでくれて、またセミナーをするときは案内をくださいとのお言葉をいただいてとてもうれしかった。しかしそういってくれる方の陰には参加せずにうがった見方で見ている人も多数いるのだと知った。
夢を持つ、夢を叶える方法論があっても、多くの人はそのことを知ろうとはしない。だから叶えることができないのはもちろんのことだ。
今のままがいい、何も変化がないことが平和、だと考える人がとても多いのだろうと思う。そして変化を促そうとする人を毛嫌いする。
しかし、それでよいのかと強く思う。それで生きていると言えるのか?
我々コーチは人に生の喜びを感じれるようにもっともっと活動していく必要があるように思う。
やはり、夢があって、ゴールがあってこその生の喜びである。
ルー・タイスと苫米地博士に教わったことはたくさんあるが、要約するとそれに尽きる。
私はこれからもあなたに生きる喜びを感じてもらえるように活動していきたいと思う。
宜しくお願いします。
あなたは誰ですか?この質問に対して、誰もが何らかの答えを堂々と話すだろう。しかし、それは本当のあなたですか?
そんなテーマだ。
私たちが意識の中で私と思っているものは大抵がブリーフシステムと呼ばれるものか私以外のものだ。
私以外のものから説明すると、例えば、私は田中一郎の息子だ。とあなたがい言ったとしよう。田中一郎はあなたではない。田中一郎とあなたの関係性の話である。私は何々小学校出身、仕事は○○で、私はどこどこに住んでいる。これらもあなたとの関係性を表現しているに過ぎない。体重何キロで、身長何センチという情報ですら、あなたとあなたの体の関係を表現しているだけなのである。いずれもあなたではない。
次にブリーフシステム。私はビールが好きです。私は阪神タイガースが勝つとうれしい熱血の阪神ファンです。これらも私ではない。ある情報が入力されるとある答えが出力されるというあなたのブリーフシステムである。だいたいいつも決まって同じような答えをだす。あることをされると腹がたつ。ということも同様だ。
本当の私はこれらではない。
このブリーフシステムや私に対しての関係性を観ている視点がある。そしてこの視点こそが私なのだ。
今まで私だと思っていたものは私ではなく、私との関係性であり、ブリーフシステムであることがわかれば、自由に関係性を変えたり、ブリーフシステムを壊したりできるようになる。
あなたが恐怖を感じたとしよう。それはある情報がブリーフシステムに入ってきた結果、恐怖という反応がおこったのである。その恐怖を観ているあなたは恐怖を感じていない。
苦しみを感じたとしよう。これも同じくブリーフシステムの結果、苦しいという答えがでて苦しいと感じているだけであり、本当のあなたはその苦しみを観ているだけで、苦しくはない。
恐怖と感じたり、苦しんだりしているのは本当のあなたではなくて、それを観ている視点が本当のあなたである。
そしてその視点は、点なので、取り出して、見たり、聞いたりすることができるようなものではなく、空なる存在なのだ。
本当の自分とはブリーフシステムを上から観る単なる視点である。
意識をその視点に持ってくることが極めて重要だ。そしてその視点から情報の関係性を観る。ブリーフシステムを観る。感情の起伏を観る。呼吸を観る。そして自由自在に、関係性を変えてみる。ブリーフシステムを変えてみる。感情を変えてみる。それができるようになれば平和なこころを手にいれたことになるのだ。
今日は言葉についてのお話をしようと思う。
我々が使う言葉は過去に経験したことが積み上げられて作られたブリーフシステム(信念体系)に支配されている。
そんな風に考えて言葉を使っている人はいないだろうが、実際あなたは言葉によりつくられており、その言葉に支配されているのだ。
あなたが自分に投げかける言葉
他人に投げかける言葉
今日一日でも意識してみてほしい。
そして言葉があなたをつくっているという感覚を身につけていただきたい。
例えば、今、前屈をしてみよう。どこまで曲がるだろうか?そして次に「私はふにゃふにゃなゴムだ」とこころのなかでもよいのでイメージしながらもう一度前屈をしてみてください。
どうだろうか?多くの人はこれだけで前屈がしやすくなる。それは我々がいかに言葉に影響を受けているかを如実に表している。
それと同じように、「私は何をやってうまくできない人間だ」と普段から心の中で呟いている人と、「私は何をやってもすんなり上手にできてしまう人間だ」とつぶやいている人も大きな差を生む。
私は何をやってもうまくできないと自分に言い聞かせている人は本当に何をやってもうまくできない。逆に私は何をやってもすんなり上手にできてしまうと言い聞かせていると本当に簡単にできてしまう。
だから、言葉というのは一種の自己予言でもある。多くの人は言葉は過去の経験の事実に基づいた自己イメージと思っているかもしれないが、その言葉を使うことによって自己が作り上げられているのである。
是非ともこのパラダイムを変えてほしい。
そして今日から、今から、この一瞬から一切ネガティブな言葉を使わないように心がけてみよう。
それだけでとんでもなく世界が変わることをお約束する。
そして、自分だけではなく、他人に対しても批判や評論の目を排除して、徹底的に励ましや勇気を与える言葉を使ってみよう。
成功したときには
さすが私!素晴らしい私!私らしい!
失敗したときには
私らしくないな。
自分以外の人が成功したときには
さすがあなたね!素晴らしい!あなたらしい!
自分以外の人が失敗したときには
あなたらしくないね。
と言おう
言葉はあなたが思っているよりも、はるかに大きなパワーを秘めている。なぜ言葉にパワーが秘められているのかを古来から多くの哲学者や宗教者などが研究してきている。しかしそのなぜを知らなくても、言葉の使い方を少し工夫するだけで、あなたの人生は一変する。
このブログがあなたの言葉を意識にあげることにつながり、良い言葉で満たされるようになれば幸いだ。
子供に対しての言葉についてのセミナーが2月27日(土)にあります。
空きがまだあるようなのでよろしければご参加ください。
今回はなぜ、抽象度の高いゴールがよいのかを説明してみようと思う。
コーチング理論の根っこにスコトーマという概念があるのはご存じだと思う。我々の認識はごくごく限られたものしか認識にあがらない。それは脳の機能の性質である。ロックオンした情報だけが認識にあがり、ロックアウトされた情報はどれだけ、目の前にあったとしても見えなくなってしまう。逆にいえば、脳は見えなくさせて効率的に働いているともいえる。
そして抽象度という概念がある。これは情報量の大小で並べられた階層のことだ。抽象度が高いとは情報量が少ない状態のことであり、情報空間と呼んでいる。その中で最高位に位置するのが空だ。抽象度が低いとは情報量が多い状態のことであり、最も低いところに物理空間がある。定義としては最低位に位置するのを、矛盾としている。
抽象度の高い情報空間が情報量が少ないというところが今回のポイントだ。中には抽象度が高いとは多くの情報を含んでいるから情報量が多いと勘違いしてしまう人がいるが、潜在的に含んでいる情報量は多くなっているのだが、その地点の情報量が少ないということなのだ。
たとえば、犬という情報量とその上の動物という情報量を比べてみて考えてみてほしい。犬の方が具体的な情報がたくさんあることに気づくと思う。
ここで言い換えてみる。
高い抽象度の情報とは情報量は少ないにも関わらず、潜在的に含んでいる情報量が多い。犬や猫よりも動物の方が情報量が少ないのに動物には犬と猫の情報が包摂されていてその情報を含んでいるということである。
我々の認識はRASによりスコトーマが生み出されてしまうことから逃れることはできない。しかし、高い抽象度で認識したものはその下位にあるものも認識しているということになる。
だから高い抽象度のゴールを設定して近づいていくことにより、この宇宙の存在を多く認識することができるようになるのだ。
スコトーマの理論により、ロックオンしたものだけが認識にあがり、ロックアウトされたものが認識にあがらない。おなかがすいて、ハンバーグにロックオンするとハンバーグ以外がロックアウトされて見えなくなる。それに反して、全てを包摂している空をロックオンしたらどうなるか?それが悟りだ。この宇宙のすべてが認識にあがったということになる。
この場合でいうとお腹がすいて、ハンバーグが食べたいというのを仏教用語で煩悩と呼んでいる。
抽象度の最も低いゴールが煩悩
抽象度の最も高いゴールが空(悟り)
ゴール設定はWANT TOで自由にできる。とはいうものの煩悩が暴走したゴールを設定したところでスコトーマだらけの認識状態のままである。
経済的な成功や人間関係の成功、知性やIQ、我々の欲しいものは今よりも高い抽象度にあることは間違いない。抽象度があがると欲しいものが手にはいったり、問題が解決されたりする。だから抽象度を上げることに意味がある。
何も空(悟り)まで行かなくてもよい。しかし今よりも一つ上、一つ上と抽象度の階層を上がっていくことが人類のゴールなんだと思う。
そして、上に上がるためには壁がある。その壁をコーチング用語でコンフォートゾーンと呼ぶ。
我々はコンフォートゾーンという壁を乗り越えながら、一つ上、一つ上と抽象度の階層を上っていくのだ。