苫米地式コーチング認定コーチ 山本敦志のブログ
5月18日と24日に「子供を天才に変えるたった3つの方法」というテーマでセミナーを開催します。
ルータイスのセルフコーチング理論と苫米地式コーチングの理論を盛り込んだ子供の教育に関わる方向けのセミナーです。
やはり、コーチング理論やノウハウは子供向けに使ってほしい。タイス式、苫米地式共世界最高のコーチング理論だと思いますので、是非参加して頂き、ご家庭や教育現場などで使っていただきたいと思います。
もともと子供は天才だと思いますがその成長過程で平凡であることが望まれ、そしてそれをいつの間にか受け入れ、今の現状があるのではないでしょうか。
子供が天才であり続けるための方法をお伝えしますので、気楽に参加してみてください。
セミナー情報 子供を天才に変えるたった3つの方法
山本敦志。
苫米地式コーチング認定コーチ 山本敦志のブログ
コーチングとは別人になってもらうことである。
これを聞いて今いち、ピンとこない人がいるかもしれない。がしかし、そういうことである。
ウィキペディアより、コーチングの基本と謳われている部分を抜粋する。
これがなければ学習効果は決して上がらない。 自ら学ぶ、自ら問題を解決する、という姿勢を作り出さなければならない。
すべての人間に個性があり、理解が早い人も遅い人もいる。個人の能力をそれぞれ伸ばすためには、同じ課題を与えても結果は異なることを前提とし、個人に対する観察、把握、分析が必須である。
表情や動作などの非言語によるコミュニケーションを含め、コーチングを行う上での基本。 自分の主張だけをしたり、あらかじめ用意されたテキストや質問を読み上げるだけでは、コーチングにはならない。
コーチングを受ける側に、考えて自ら問題を解決する力をつけさせるのが、コーチングの最終的なゴールとなることを忘れてはならない。
らしい。
これらはコーチングをする上での具体的な方法論の話であり、コーチングの本質を表しているとは私は思わない。しかし、巷ではこれらの具体的な方法論が、まるでこれらこそがコーチングだと言わんばかりに独り歩きしているように感じる。本質が置き去りにされてしまえば、骨抜きにされたも同然だ。だからこそ今回は本質部分を強調して言いたいと思う。
なりたい私。
ゴールを達成している私とは
現状の私からすると完全な別人なのだ。
現状の私がずっと続いた場合の未来も含めて、現状という。現状という言葉には現在とその延長上の未来が含まれていると理解してほしい。
その現状から離れて、違う時間軸を作り出す。そしてそちら側に現在の意志の力でたどり着くことが本来のコーチングが目指す意味なのである。
それは現状の私が続いた場合になる私とは、全くの別人なのだ。
別人になるためにゴールを設定する。そんな視点を入れるとまたひとつスコトーマが外れるのではないだろうか。
ゴールを達成することにはもちろん価値があるが、別人になることにも同じ価値がある。
しかしだ。ゴールを達成したいかと問われれば、イエスと答えるだろうが、別人になりたいかと問われればあなたならどうこたえるだろうか。
人によってはノーと答えるかもしれない。
その人の無意識は現状を肯定している可能性が高いのである。
現状のホメオスタシスにより引き戻されるということだ。
それではこう質問すればどうだろうか?
現状の私では達成不可能と思えるゴールも、そのゴールが達成できそうな別人になることが可能だとすればあたなは別人になりたいですか。
少しは別人になってもよいと思ったはずだ。
改めて言うが、コーチングとはゴール達成にいざなうことであり、ゴール達成するとは別人になることである。つまり、コーチングとは別人になってもらうことなのである。別人とは他の誰かになるという意味合いではなく、自分の自我を変えるということだ。別の自我を手に入れるということだ。
年収300万円の人が
年収1億円になるということは
年収300万円の自我から年収1億円の自我に変えるということである。
ウィキペディアに記載されていることはあくまでも具体的方法論である。(その方法論が正しいかどうかはここでは検証しないが)
コーチングの本質は現状に対して別人になること。自我を変えることなのである。
苫米地式コーチング認定コーチ 山本敦志のブログ
微力ながらお手伝いさせていただきます。
微力ながら一生懸命頑張ります。
という言葉を聞いて思うことがあるのでそのことについて触れてみたい。
まず、自分で微力と言っている段階で好ましい言葉の選択とはいえない。しかし、日本では謙虚が美徳とされるので、相手に与える印象をよくしたいという意味合いではまあ良いかなとも思う。
ただし、その場合はあくまでも、社交辞令的にこの言葉を使っているという自覚が必要だ。
高いエフィカシーを維持するために、セルフトークに気を付けている人は絶対使ってはいけない言葉になる。
なぜなら、あなたの力は微力ではない。もし微力と言ってしまえば、微力しか出ないし、微力の持ち主になってしまう。
微力ではゴールを達成させる力は弱いし、叶う可能性も圧倒的に下がる。
心の中では「すごい大きな力で」と思っているがコミュニケーションの関係において角が立たないように裏腹な言葉の選択としての「微力ながら」はOKだが、心の中も「微力ながら」と思っていたらだめだ。
だからすごい大きな力でお手伝いします。私はすごいですから。というべきなのである。
これがエフィカシーであり、そう思っている人は本当にすごい力がでる。それを知っていると自然にそんな言葉がでてくるものだ。
謙虚は美徳という文化はそろそろ変えてもよいのではないか。
もちろん、鼻につく人になるかもしれないが、時代を超える先駆けとなる人は大いに鼻につく人になってはどうだろうか。
若しくは、建前として謙虚を使う。そんな選択肢を選ぶか。それもよい。
しかし、絶対に心の中では「微力ながら」はNGだ。覚えておいてほしい。
またこのテーマでもう一つ触れておきたいのは、心の中で「微力」としか思えない場合のことだ。
私の存在価値が低いといってもよいかもしれない。
この場合は抽象度を上げることを意識してみて欲しい。
抽象度をあげると視点があがる。
スポーツにおいても選手は一つの駒としての動きが望まれる。その場合は確かにサッカーでいえば11分の1、野球で言えば9分の1になるので確かに微力になるかもしれない。
しかし、監督という視点にたてば、おのずと微力という言葉を選択しないだろう。大きな力を振るうポジションに位置するのだから。
もっと抽象度をあげるとそのチームのオーナーの視点でチームのことに対して、仕事をする場合はチームに対してもっと高い影響力を発揮する。
その場合には「微力ながら」という言葉は使わないだろうことは理解できると思う。
なのでどうしても、「微力ながら」としか思えない人は抽象度という考え方を意識し、視点をぐぐっと上に持ってくるトレーニングをしてほしい。
エフィカシーと抽象度を上げる。
すると「私のすごい力をお貸ししましょうか」という言葉が生まれる。
または「私はすごいですから」という言葉を使い続けることにより、エフィカシーと抽象度が上がる。
両者は双方向的な関係なのである。