ゴールが何かわかりません。という理由について。
ゴールを持つとは、たいそうなことなのだろうか。例えば、もしゴールを何でも一つだけ達成させてくれる神様がいたとして、そうドラゴンボールの神龍のような存在でもいい、いたと仮定しよう。その神様があなたのために何でもゴールを達成させてあげるといったら、「ゴールが何かわからないから結構です」と言うだろうか。
私は言わないと思う。いう人の気が知れない。それぐらい誰にでもゴールはあるに違いない。
ただ、ゴールは何ですかというシチュエーションやシーンによって、ゴールは本来のゴールからだんだんとかけ離れていく時があるのかもしれない。
どういうことかというと、小学生に学校で夢は何か?考えさせられ、それを授業中に発表させられたとしよう。もちろん夢を正直に言える子もいるだろうが、言えない子も理解できる。それはそのクラスの中には社会的な評価が必ずあってその夢を評価し、最悪な場合は否定するということまで普通に行われるからだ。すると本来の夢が社会的な評価の高い夢に変化してしまう。
それは夢とは言わない。社会の模範のカタチをその子が見つけ出し、表現しているだけである。
だから、コーチングにおいてもゴールはコーチにしか言わない。という鉄則がある。親でもあっても言ってはダメというぐらい、徹底して秘密にすることをすすめている。
このような体験がゴールがわかりませんという言葉に繋がっているかもしれない。しかし上記のように神様や神龍の話をすると急に色めきだって、ちょっと待ってと必死になって数あるゴールの中から最高のゴールを見つけ出そうとする。なんだたくさんあるんじゃん!
個人の心からこみ上げてくる、叶えば楽しい、うれしいゴールと社会的評価の高い立派なゴールとが、どこかですり替わってしまっている場合があるのかもしれないと感じる。
このような場合はうれしい、楽しい、誇らしいといった感情を呼び起こしながらゴールを探すのがよい。
そして次だ。
神様のようなファンタジーな話だとゴールが思い浮かんでも、現実にそのゴールを持って生きていこうとしたときに、やっぱり無理かなとか、今のままでも結構幸せだしなとか、現状を肯定するような気持ちが生まれてくる。これが現状に強烈に働いているホメオスタシスという現象である。現状に対して求心力のような力が働き、人が変わることを阻害する力である。
ゴールがわかりません。ゴールが持てませんというのはこのホメオスタシスの力が働いている場合が多い。
無意識が変化を拒絶し、現状を肯定して、安定状態を保とうとする働きである。
極端な言い方をするとゴールを持つとゴールが達成されてしまう。ゴールが達成されるとは変化するということだから、ホメオスタシスはゴールを持つというところまで影響を与え、ゴールを持たないように働きかける。
このことへの対処はわかりやすい。ゴールを持つことだ。
ゴールを持つことにホメオスタシスが働くというのは、恐らく、ゴールを持つとそのゴールが達成されると無意識が感じているのだと思う。こんな人はゴールさえ明確にすれば案外すんなり、達成されてしまうかもしれない。
ゴールはゴールを達成するということ自体も素敵なことだが、それだけではなく、自分の人生を自分の意志で生きていくために必要なツールともいえる。
我々の深い意味での目的とは自由意志の獲得なんだと私は思っている。
誰かに設定されたゴールに従ってズルズルと生きていくよりも自らが設定した、自由な選択で設定したゴールに向かって生きていく方がよくないだろうか。
そのためにも、とりあえずは今心からこうなったらいいなと思えるゴールを見つけ出してほしい。
人が変わるとはどういうことだろうか。
まず、人格や性格などと言われるものは、過去の情動記憶が基となっているブリーフシステムである。このことを理解してほしい。
あなたが私の考え方や価値観と思っているものは私ではなく、私のブリーフシステムだということだ。人が変わるとはこのブリーフシステムが変わらなけれならない。
私は粕汁が嫌いだ。それは子供の頃に風をひいて、嘔吐を繰り返していた時に粕汁を飲んでまた嘔吐した体験があるからだ。それ以来、粕汁がどうしても好きになれない。たまに高級和食料理店でのコースの中に粕汁が入っていて仕方なく飲んだりするとおいしいと思ったりする。それでもやはり私は粕汁は嫌いなのだ。
私は粕汁が嫌いだから飲まない。というブリーフシステムなのである。これと同じように、特に子供の頃の体験が多いが、数えきれないほどの体験の積み重ねがそれぞれのブリーフシステムを作り出している。
ここで重要なポイントはこれらは過去の体験であるということ。
人が変わるとは未来に対して、過去の延長線上の時間軸の未来の自分から、自らがこうなりたいという時間軸の未来を新たに作り出して、そちら側にシフトするということである。
それは新しいブリーフシステムを作るという作業でもある。
しかし、過去の時間軸上の未来の私にはすごい力でそのままでいようとする力が働いている。過去のブリーフシステムを維持しようとする力である。
だから過去の自分は捨て去らなければならない。過去のことを過去のことだから関係ないやと思える人は比較的容易に新しい自分になることができる。
今日のブログはこれから、あなたが過去にこだわらない様に生きていくために書いている。
今日から過去にこだわるのはやめましょう。きっと爽快な気持ちで生きていくことができると思いますよ。
ちなみに時間はどんどん流れている。
今はもう過去。だから過去にこだわらないとは、今思っていることも一秒後に気が変わってもOK!ということだ。
どんどん変わろう。過去のブリーフは過去のもの、過去の価値観は過去のもの。変わろうとする人にとって必要なし!!
その代わりに新しいこうなればいいなと思う未来、こうあればよいなと思う未来をどんどん創り出そう。
自然と人工といえば、自然の方が聞こえはいいかもしれない。しかし、人の心は人工的に変えるべきだ。自然のままだと過去の延長の未来しかやってこない。人工的というより意志的の方がよいかな。
とにかく、あなたの人としての意思で未来を創っていくのだ。
このことを変わるという。
本日は趣味と職業について考察してみたい。
趣味も職業もコーチング理論の一つ、バランスホイールの項目の中にほとんどの人がこれらを入れているほど、人生にとってとても重要な事柄のふたつといえよう。
コーチングを教える上で、人生の中に一切のHAVE TOを排除し、WANT TOのみで生きることを推奨している。
だから、趣味も職業もWANT TOであることが大前提となる。その点でこの二つは同じカテゴリーに属すといってもよい。さすがに趣味がHAVE TOという人はいないと思うが、仕事がHAVE TOの人は多いかもしれない。職業はWANT TOで選ぶようにしてください。大前提です。
次に趣味と職業の違いを見てみることによって、自分の人生のスコトーマがはずれるかもしれない。それを期待している。
まず趣味の定義
自分以外の楽しさ以外には誰の役にも立たなくてお金がかかること。
職業の定義
自分の能力や労力が社会に役に立つこと。社会に役割を提供すること。その中でお金がもらえるものとお金がもらえないものがある。
どうだろう?この定義に当てはめると今まで趣味だと思っていたものが職業だったりすることに気づく人がいるかもしれない。
例えば、ボランティア行為は自分の労力を社会に提供しているという点で職業に属す。しかし、その報酬はない。それで趣味とみなしている人がいるかもしれないが職業である。
趣味は誰の役にも立たないがやっていて心から楽しいことだ。そしてお金もバンバンかかる。
趣味でカバンづくりをしているとしよう。原材料を買ってきて自分が好きなように作っているのは趣味。ではその趣味のカバンを人が見て「素敵!私にも作って!」と言われたとしよう。「いいよ!材料は私が買って私があなたに似合うカバンを作ってあげる!」これは趣味だ。自分が作りたいように作るのだから、もしかしたら気に入られるかもしれないが気に入られないかもしれない。そんなことどうでもいい。私が作りたいように作ってあげる!
しかし、「材料費は頂戴ね。その代わりどんなかばんがいい?」と相手の希望を聞いた場合はどうだろう?これは職業になる。あなたの能力、労力は誰かの期待に応えるという形で役割を提供したといえる。だから職業。
「趣味でやっていたのに最近楽しくなくなってきた」なんていう背景にはこんなことが潜んでいるかもしれない。
では職業におけるWANT TOとはなんなのか?このかばん作りの例でいえばカバンを作るという行為そのものがWANT TOであるということだ。
そして職業になった時点で、自分一人の世界から相手や社会を巻き込んだ約束(契約)という重要概念がはいった世界での行為となる。そこには社会的責任が生まれ、約束を守るという義務を負う。それと引き換えにお金という報酬がもらえるわけだが、人間関係や約束を果たす上での問題は生まれる。
それでも、仕事自体はWANT TOなので楽しいというのが職業だと思うのだが。
いづれにせよ、趣味も職業もWANT TOで選ぶということを忘れてはならない。給料がいいからとかの前にその仕事が自分にとってWANT TOであり、その自分の能力、労力を社会に提供していることが「うれしい、楽しい、誇らしい」と思えるかどうか。
そんな仕事に巡り合ってほしいと思う。
そしてどんな職業がよいのか、わからないという人は趣味を徹底的に取り組むことをやってみてほしい。もともとは趣味も職業もWANT TOという意味で同じカテゴリーだったわけだから、趣味を通して、違った自分に気づけるかもしれない。
もちろん趣味を趣味としてやり続けるのか、趣味から社会になんらかの役割の提供をしてもよいなと思うかはあなたの選択による。
私はコーチとして、「やりたいことが見つかりました」「私こんなに変わりました」なんて言われると超うれしい。社会にどんどん役割を提供したいと思っているから、コーチングは職業かな。
小耳にはさんだ話だが、タイトルのように子供(小学生)同士の会話の中に、親の職業やどんな車に乗っているのかが話に上がるようだ。私にその話をしてくれた人は、げんなりして話していた。
もちろん、その背景には親が周りにひとに対して、職業や年収でもって人を判断しているのだと思う。その価値観が子供にも影響を与えてのことだと思う。
最近のテレビでも年収やお金持ちの住宅をネタにしているものもあるので、子供がそんなことを言い出すのもうなづける。
とにかく、お金で人を判断するような社会ができてきているのは事実だ。そしてどれだけお金を持っているかで人に順位をつけるような社会ができてきている。
最低だ。
その話はひとまずおいておいて、気功の話をしてみたい。
気功の教えの中に「元神」と「識神」という考え方がある。「元神」とは先天的な意識のことで、人間の生まれつきの知恵のことである。自然治癒力や自然保護力などがそれにあたる。疲れたら眠くなったり、血圧のコントロールをしたり、病気やけがをしても自然に治ったりと人間がもともと持っている無意識の領域の力のことを指す。
それに対して「識神」とは生まれた後に勉強や経験で得られた知識の総括のことで、理性的な判断であったり、意識的な選択のことを指す。
現代的な表現でいえば「右脳」「左脳」とか「意識」「無意識」、「顕在意識」「潜在意識」といったところだろうか。
現代社会は特に理性の判断を大事にするところがあるように思う。それにより「識神」ばかりが活性化して、「元神」の働きが弱くなっているのではないかと思っていた。
その矢先に冒頭の子供の話を聞いたわけだ。
お金が欲しいと思う気持ちが悪いとは全然思わないが、お金のあるなしで人を格付けする社会はろくなもんじゃないと思う。
その子供が格付けしているかどうかまではわからないが、この出来事から社会全体を見回したときに、明らかに人が作り出した社会がお金のあるなしで格付けをする要素がある。
人間が頭を働かせて作ってきた社会は文明の発達を遂げたが、お金の欲望からは依然として離れることができていない。ましてやお金の欲望を大きくして成功させた人の方が礼賛されるような社会が出来上がっている。
「識神」が幅をきかせた結果なのかと私の中ではつながるのだがどうだろうか。
「元神」にはとてつもないパワーがある。そのパワーとは病気を治したり、気力、精力がみなぎる体になったり、夢を叶えたりと計り知れないパワーがあるのだ。しかし、「識神」が意識の司令塔の座を明け渡さないので、人間は「元神」のパワーは発揮されない。
気功は「元神」の力を発揮するための方法論だといえる。
気功の詳しい話はまたこのブログでもしていこうと思う。
とにかく、社会もそうだが、まずは個人がお金もよいが、それだけでなく心の安定、心の平和、心の充実を図る必要性があるのではないか。
そのように感じたのだが、あなたはどうだろう?
ネガティブ、ポジティブについて考えてみた。
ネガティブとポジティブはプラスとマイナス、S極とN極、のように相反するふたつの概念と考えがちだ。
しかし、このように考えてみてはどうだろうか。
ポジティブとはネガティブな要素を包含した概念だと。
悟りの境地に行っている人以外は、誰にでも好き、嫌い、得意、不得意、などと同じようにポジティブな要素とネガティブな要素があるだろうと思う。
そのネガティブな要素を否定してポジティブな考え方をすることをポジティブシンキングと考えがちだが、ネガティブな要素を受け入れ、そんな自分を愛してしまう考えかたが真のポジティブシンキングだ。
私は人前で話すのが苦手だと思っているがいるとしよう。しゃべらしたらたどたどしいし、緊張するし。とネガティブに考えているとする。その人がポジティブになろうとしたときに、緊張せずに、堂々と、スラスラと話せるようになろうとする。大丈夫、私なら立派に話せる!と。
誰かに相談しても、その励ましは大丈夫、立派に話せるさ!というものだったりする。
真のポジティブとは緊張したっていいじゃん!たどたどしくたっていいじゃん!うまくしゃべれなくたっていいじゃん!である。それを受け入れたらいいじゃん!ということなのである。
そもそも誰かに何かを伝えるという行為はうまくできようができまいが伝わればよいはずだ。伝える内容が重要なはずなので、うまくしゃべれなかったら、紙に書いて読み上げてもよいし、全身、緊張の汗でビチョビチョになりながら話してもよい。
とにかく、ネガティブとポジティブには包含する一つ上の抽象度があるということを知ってもらいたい。
今回はそれに真のポジティブと名付けた。
やはりネガティブな考え方とポジティブな考え方だとポジティブがいいに決まっている。肯定的な状態でいることはとても重要なことだから。
しかし、ネガティブな対局に行くことでなく、ネガティブ要素を受け入れたうえで、それを超えたポジティブが本当に良いポジティブだと思う。
日本語で言い換えると、否定的感情を無視するのでなく、否定的な感情が自分にあると知る。そしてそんな否定的に思っていることも角度を変えてみてみると、なんだ愛せるじゃんと気づくこと。それが真に肯定的な自分の見方だということだ。
これで今日からのあたなは真のポジティブシンキングができる人になったはずだ!
そして、ここからもっと抽象度を上げていくと、肯定も否定もない、ただの関係性の集合である縁起の思想に到達する。縁起の話はまた今度。
コーチングの理論を結構わかっている方からこのような質問をされた。
「変われないのはなぜですか?どうすれば変われますか?」と
コーチング理論をよくわかった上での質問なので「現状のホメオスタシスが強いから」などの理論的な答えではダメだろうと判断して考えた。
なので「あなたが変われないと言っているから」と答えた。このような応対はルー・タイスとその質問者との間でもあったことを思い出した。そしてルー・タイスの気持ちが少しわかったような気がした。
コーチング理論を学んだが結果が出ないという人は少なくない。それは理論を学ぶことと実践することとは全く別だから。それが一点。もう一つは理論が本質的にわかっていないから。
今回、感じたことはエフィカシーがわかっていないのではないかということだ。
エフィカシーが高いという言葉の意味である。
まず、コーチングにおいてセルフトークのコントロールを特に重要視している。この場合でいうと「変われないのはなぜか」という質問自体が「私は変わることができない」というセルフトークになるわけだ。なぜそのようなセルフトークが出現するかというとエフィカシーが上がっていないからといえる。
エフィカシーがあがっている状態では、ゴールのことしか目に入っていない。そしてそれができると確信している。「変わる」=ゴールであるから、エフィカシーが高い状態とは変わっているイメージしか持っていない状態なのだ。
エフィカシーが高い状態では「なぜ変われないか」という質問自体が存在していない。
なぜなら「変われない」とは、過去に変われなかったということだから。エフィカシーが高い状態とは未来のゴールを強くイメージできていて、叶うと確信している状態だから、過去に変われなかったことは、次に変わるためにはこの方法でななかったなぐらいの学びにしか思わない状態である。
この質問は言い換えると過去に囚われている質問なわけだ。
エフィカシーという言葉を学ぶ意味とは自分がエフィカシーを身につけるためである。エフィカシーを身につけるとはエフィカシーが高い状態の言葉を使うということと言ってもよい。それがセルフトークのコントロールということになる。
ブリーフシステムは長年の習慣により蓄積された価値体系だ。それはもちろん強烈なホメオスタシスでその状態を維持しようとする。
それを意識的に変えていく上でコントロールできるものは、ゴールへのイメージとセルフトークのコントロールしかないのだ。
だからこそエフィカシーの高いイメージを持ってエフィカシーの高い言葉を使い続けることが重要なんだ。
重要というか全てだ。
気を付けるのでもない。なりきること。そのイメージに馴染むまでなりきる。最初は気持ち悪いかもしれないが、いづれ馴染む。馴染むことが変わることなのかもしれない。しかし、馴染んだ時にはそれが普通の私。エフィカシーの高い状態が当たり前になる。その時にはまた次のゴールを探しにいっているはずだ。
エフィカシーは思っている以上に重要な概念である。ゴールの達成も変化が起こることもその原動力はエフィカシーである。エフィカシーなくしてそれらは期待できない。もう一度エフィカシーという意味を考えなおしてみてほしい。
そしてセルフトークのコントロールも高いエフィカシーを維持するためのものであることを覚えておいてほしい。
高いエフィカシーのあなたはどんなセルフトークをするだろうか。
まずはルー・タイスの言葉から
敗者のほとんどは、自分の人生を「しなければならない」だらけの状況で過ごします。何をやるにしても、自分の行動に責任を持とうとしません。
「しなければ」というたびに、個人的責任を放棄するだけでなく、自尊心も引き裂いています。「しなければならない」は、「これは本来の私ではない。誰かが私をコントロールしている」を意味します。「しなければならない」状況では、常に自分に「やるよ。でも、もし自分の好きにできるとしたら、別のことをする」と言い聞かせています。それは、「私は自分の意志に反して、強制的にこれをやらされている」ということです。
どうだろうか?多くの人にとって突き刺さる言葉なのではないだろうか。
自分のやる行動に「あ、あれしなきゃ!」というセルフトークを何気なくしていないだろうか。
ルー・タイスはその言葉を使うたびに、自尊心まで傷つけていると言っている。
思い通りの人生、ゴールを達成する人生を目指す人がこのブログを読んでいると思う。そのためには「しなければならない」ことを人生の中から排除していくことが必要だ。
(排除しなければならないのでなないですよ。排除したいですよ。何気に排除しなければならないというような思考をする人は今日から変えていこう。)
今から自分がどれだけしなければならないことをしているのか。またそのようなセルフトークをしているのかを見直してみてほしい。
そして、したい。しよう。と思うことをするようにしてほしい。またしたい。しようという言葉を使うようにしてほしい。
もちろんやりたくないことをしたいという言葉を使うという意味ではない。自分が選択したということ自体がしたいことであるはずなのだ。
この世界に「しなければならない」ことなんてない!
もしあると思っているのならそれは誰かにそう思い込まされているだけだ。
この世界に「しなければならない」ことなんてない!
やりたいことがそこら中に広がっているのがこの世界だ。
楽しいことがそこら中に転がっているのがこの世界だ。
やりたいこと、楽しいことを片っ端からやっていくことが生き方だ。
人は生まれたいと思って生まれてきたわけではないし、死にたくないと思っていてもいつかは死ぬ。
しかし、生きている間に、やりたいこと、好きなことを選択して生きていくことはできるはずだ。
今日からそんな考え方で生きてみてはどうだろうか。
今日はビジネスコーチングについて
私も水道工事の会社とコーチングの会社を経営している。
会社経営をしている方にとって、またはチームを組んで何かを達成しようとしているリーダーにとって、コーチングとは役に立つものだろうか?
今回はそんなテーマにしてみよう。
結論から言うとゴールがある人にとっては劇的に効果があがるだろう。というのもゴールがなければ何の役に立つのかの定義ができないのでゴールがあるという大前提でいえばコーチングは役に立つ。
ではなぜか。
それは会社を経営している人にとっても、社内におけるチームにとっても必ずスコトーマができるからである。
コーチングでいうところのスコトーマとは心理的盲点のことである。脳と性質上必ずスコトーマができる。
人の脳は重要であることと重要でないこととを選別して、重要なことだけが認識に上がるようにしている。そうして情報を取捨選択しなければ情報処理をすることができないからである。わかりやすくいうとパンクしないように処理できる範囲で認識にあげるような働きをしているのである。
詳しくは過去のブログhttps://www.yamamotoatsushi.jp/60014217/archives/80
ここで問題なのは、重要なこととは過去に重要だと判断したこと、というところだ。過去に重要だったかもしれないが現在の問題に使えるかどうかわからない。この急速な情報社会時代の中では使えない場合がほとんだ。日々変わっていく社会の中で、会社もその構成員も変わっていかなければならないことは感じていると思う。
しかし、我々の認識するブリーフシステムという機能は全て過去の体験が作り出しており、そしてスコトーマを生み出している。
だからこれからの会社にとって必要な情報もスコトーマになって目の前にあっても見えなくなっている可能性が高いのだ。
コーチングとはそのスコトーマを見つけ出しクライアントの目の前に見えるようにしていく作業のことをいう。
このような意味において会社にとってコーチングが役に立つといえる。
もちろん会社といっても会社をコーチングするわけでなく、コーチングの対象はやはり個人なわけで、つまり会社を運営している人のコーチングのことを指している。
少し、別な言い方をすると
長い間、生きてくると色々な体験をするのだが、その経験が会社をここまで育て上げた要因であると同時にこれからの成長を阻害する要因でもあるということだ。
それは経験と共にこだわりや偏見が備わったものの見方、価値観が出来上がっているということである。
これを認めるのは勇気のいることかもしれないがそのものの見方、価値観をガラリと変えることがスコトーマを外すことに繋がるのだ。
そしてその作業を共にする人をコーチと言い、その作業がコーチングである。私はこれからは会社にとってコーチングを導入することが当たり前になってくると思っている。それはスコトーマの理論が理解されたと同時にコーチングの必要性も理解されるだろうという期待だ。
私自身、経営をしながらも日々スコトーマを見つけるべく意識している。そしてその効果は劇的であり、確実である。
今回はバイオパワーについて。
フランスの哲学者ミシェル・フーコーがその自著「監獄の誕生―監視と処罰」の中でバイオパワーという概念を提唱した。日本語に訳すと生権力となる。
バイオパワーとは「監視下における自己規制をさせる力」ようは「誰かにかんしされているという暗黙のプレッシャーがあると、実際には監視されていなくても、監視者の期待するように行動させてしまう力」といえる。
フーコーはバイオパワーを説明するうえでパノプティコンを持ち出して説明している。
パノプティコンとは刑務所の設計構想であり「全展望監視システム」のことである。
監視塔を中心にしてその周りを360度円形にぐるりと囚人の部屋が配置されている。囚人の部屋から監視塔の看守は逆行により見ることができないように設計されており、逆に看守はいつでも囚人を監視できるようになっている。
パノプティコンの狙いは看守が360度見張る効果よりも囚人が見られているかも知れないという心理効果を与えて逃亡を防ぐということだったというのだ。
そして、そのバイオパワーは監獄だけではなく、集団や種というものを対象にする権力技術として使われるようになっていった。
そして権力側が用意した思想や規制に従って生きるように国民を仕向けていくということにつながっていく。
今の社会もこのバイオパワーがガンガンに働いているといえるだろう。我々は常に誰かに見られているかもしれないという心理を持ちながら、決断、行動しているのだ。
バイオパワーは例えば、夜中にゴミを出していたら近所のおばさんに怒られた。なんて場合にも同じように働いている。
次に夜中にゴミを出そうとしたら、あのおばさんがまた見ているかもしれない。と思いやっぱりやめておこうという判断をするような場合だ。
本当に見ているかどうかではない。本人が見られているかもしれないという心理が働くことによって行動が決まってしまうということである。
もちろんそのような状態では自由な意思決定をすることが困難だ。というより当の本人も、自分のやりたいことをやることよりも、社会が期待する思想、規制に従って生きる方が心地が良いと思っているので、自由な意思決定をしているつもりでもそれは権力者の思うがままの意思決定だったりするかもしれないのだ。
無意識の領域までバイオパワーは深く入り込んでいる。
そして睡眠中の夢の中で何かに追われているような感じがして目が覚める。などという体験がをしたことがないだろうか。
しかし、そんなことも忘れて、また権力者の期待に応えるかのように、誰かに見られているかもしれないと思い、正しくあらねば、規制に従わねば、と無意識の判断を繰り返しながら生きている。
本当にやりたいことを見つけ、真の自由を手に入れるためにはこのバイオパワーに気づき、超えていく必要がある。
バイオパワーを超えて覚醒することの重要性はこの現代社会でも変わらないと思う。
コーチとなって以来、コーチの役割とはなんだろうかと問い続けている。
今現在は私はコーチの役割とはこのように考えている。
まず、コーチにとって重要なことは「人は変われる」「人は成りたい者に成ることができる」と知っていることである。そしてそれをクライアントに伝えるのが役割である。
もちろん、私も変わろうとすると葛藤が起きる。ブリーフシステムを変えようとすると現状維持のホメオスタシスが働き、変わることを阻止しようとする力に日々遭遇している。しかし「心から変わることができる」と知っているからそんな力にも負けずにいられるのだろうと解釈している。だからやはり知っているということがまず重要だ。
変わることがなぜできるかという知識は、苫米地式ではとても深い、知っても知ってもその奥がある。それは背景に哲学、数学、認知科学、脳科学、心理学などの学問体系がしっかりあった上での理論体系だからこそだ。それを学んだからこそ心から変われるとと思うのだろう。
しかし、どのようにすれば相手に伝わるのか?伝えるということをいかに効果的にしかも確実にできる能力がコーチの能力になる。
伝えるうえで重要なのがコーチの在りかただと考えている。つまり私自身がどのように生きているのかということ。私や私の仲間である、コーチがエビデンスとなっているのかどうか?
実践しているかどうか
コーチはすごい人ではないと思っている。(苫米地博士はすごいと思っているが)しかし、コーチは実践している人であることがとても重要だと思っている。実践すると恐怖、不安という者の存在を知る。そして勇気の必要性も知る。そんなことがわかるからこそクライアントの背中を押してあげることができる。
だからブリーフシステムをぶち壊すことを実践していることは要件だと思う。
コーチングのセッションではそんな空気感が伝わってクライアントもまたブリーフシステムをぶち壊してやろうという気になるのだろう。
するとだ。
クライアントもブリーフシステムをぶち壊して実践し始めた時点でコーチと同じになる。
そう私はコーチの役割とはリードすることだけではなく、クライアントだけにとどまらず、関係する人すべてと共に励ましあいながら、歩むことだと思うようになった。
コーチングにおける知識はあるゲシュタルトが形成されると「できる」「変われる」ということに集約される。至ってシンプルな知識だ。
そして実践とは日々起こることに対して、自分がやりたいように選択して、勇気をもって行動するということに集約される。
できると思って行動している人はコーチでなくてもたくさんいる。逆にコーチであっても乗り越えることができるのかといった不安を持つことだってある。
コーチとクライアント、親と子、師と弟子、すべての関係が双方向性を持っている。お互いに影響を及ぼしあいながらダイナミックな縁起の関係性を作っている。そんな風に自覚するようになった。
私がコーチとして影響を及ぼしていることもあるが、私がクライアントやアドバイスをした人から影響を及ぼされていいるということに気づいたということだ。
これからも私はあなたのコーチとしてより、自由に、より楽しく、より強く、歩んでいこうと思う。
もし、あなたが変わりたい、と思っているのなら共に歩んでいきましょう。そんなあなたに影響を及ぼされ、また成長することができると思っています。もちろんコーチングの効果はいうまでもなく絶大ですからあなたも大きく変わっていくことになると思います。
より高いゴールに向かって共に!