苫米地理論における自我の定義
自我とは宇宙の中から自分を定義する部分関数である。
宇宙に自我という関数を入力すれば私が出力されるということです。
これと同じ表現をして例えるなら自然数における偶数という概念があります。
自然数に偶数という関数を入力すれば(2,4,6,8,10・・・)が出力されるのと同じです。
では、自我という部分関数の中身とはなんなのか?
それは私にとっての重要性で並べられた情報のことです。
私は兵庫県に住んでいて、親はだれだれで、兄弟は何人で、好きな食べ物は何で、どこどこの学校出身でなどと、私を定義する情報のネットワークを自分にとって重要な順番に並べ替えます。
そして例えば、好きな食べ物がプリンだったとしたら、プリンという情報のネットワークもまた多数存在し、そのネットワークは無限に広がっていきます。
その無限のネットワークの中で、自分にとって重要な順番に並べられた情報の中心点が自我ということになるのです。
自我の説明を試みた時に、自分にとって重要な情報をあげることはできますが、自我自体の説明をすることができるでしょうか。これが自我が点と同じようなものであるといわれるゆえんです。
ユークリッド幾何学の定義における、円に対しての中心点とは面積のないものです。ですから、これ!といた存在をとりだすことができません。
また同じく、線分の端にしても存在していることは間違いないのですが、線分の定義は幅がないのですから、これ!とその存在をとりだすことはできないのです。
ですから、同じように自我もとりだすことのできるようなこれ!といったものがなくただ自我という中心点に向かって重要性の順でならんだ情報の集まりであるといえるわけです。
プロスポーツ選手やオリンピックでメダルを目指す選手は果たして、そのスポーツを楽しめているのだろうか?
そんなことを考えてみたい。
まず、プロはファンのために勝つことが要求されるし、楽しんでいたのではすぐにクビになってしまうかもしれない。年棒に見合った成績をあげる必要がある。楽しむことよりも重要なことがあるのがプロの世界だろう。
オリンピックのメダルを目指している選手にしても、心、技、体と徹底的に鍛え上げた人々の中でその頂点にいこうとするのだから、楽しむなんていってはいられない世界だろう。
好きではじめたその競技がいつのまにか楽しむことからかけ離れた世界に連れて行かれる。そんな体験をしている選手が多くいるのではないか。
スポーツというものはそのゲーム性を楽しむものである。
だからこそ、体重別、や年齢別、性別、プロとアマ、などに分けて公平性を維持しているのだ。
不公平な競技なんてやっていてもおもしろくない。
私が小学生にサッカーを教えていたときがあった。小学生同士の試合の中で人数が足りないということでコーチが入ったりすると突然子供たちはやる気をなくす。低学年の試合に高学年がはいってもぶーたれて、やる気をなくしたりする。
子供ながらに公平性を保てなくなったゲームは敏感に感じ取り、面白さを感じなくなるようだった。
逆にこんなケースもあった。私が子供のころ近所の公園で、野球をしていると隣で野球をしているグループに試合を持ちかけることがあった。私たちは小学5年の友達と二人、相手は小学6年二人、小学4年三人、2対5の試合だ。しかし、なんとなくの力量からちょうどいい勝負ができていた。双方が楽しめていたのだと思う。
こんな遊びからもっとゲーム性を高めたほうがおもしろいとう発想から、審判がついたり、人数を合わせたり、コートの大きさを統一したり、大会を開催したりとなっていったのが今のスポーツだ。
あくまでも、公平性を維持した中でゲーム性を楽しむものがスポーツである。
プロ選手はファイナンスという目的でのスポーツをしているという要素が加わる。
それはやっている側が主役なのではなく、見ているファンが主役な場である。それはお金を払う側の期待にこたえるという職業だからだ。
ファイナンスという観点からは確かに選手がスポーツを楽しむということができないかもしれない。
しかし、ここで何度も超一流アスリートになるための方法論を示しているが
スポーツが楽しいことでななく、義務感になるとパフォーマンスとしてのその能力が一気になくなってしまう。
プロフェッショナルな世界に身をおいたスポーツ選手とはもともとは、天才などとよばれた存在で、あまりにもすごすぎて、その技量はこのステージでは不公平だよなという感じで、次のステージ、次のステージと活躍する場を高いステージにあげてきた人たちであり、
あくまでも自分と同じぐらいの相手と戦ったほうが楽しいというスポーツ本来の公平性を維持している世界だ。
そこに職業になった点で、ファイナンスという観点がはいり、楽しさを維持することができなくなったような気がするかもしれないが、
そこで自分の全力を尽くして相手との戦いに勝つことや自分の演技を披露することは今でも楽しいことだと思う。
スポーツにおいて感情のコントロールが重要であることは誰でも知っていると思う。
そのあたりを具体的に考えてみよう。
負けて悔しいという感情はどうだろう?
私はNO1の選手なのだというホメオスタシスを維持していれば、もし負けたら、NO1ではないじゃないかというブリーフシステムの葛藤がおきる。
その葛藤が感情となって現れる。
悔しさが現れたり、絶望感が現れたり、挫折感、恐怖感
NO1であるという自己イメージとともに常にそうではないのかもしれないという状況になるのはよく考えてみると当たり前だ。
NO1であるという自己イメージは未来のものである。
未来にNO1であればよいのだ。
そして未来のNO1の道を登っていくときに連戦連勝というわけにはいかないのは当然だ。
そのときには必ずいろいろな感情が押し寄せる。
感情は比較的古い脳が活性化した状態なので、理性という比較的進化した脳を使って、この問題を解釈し直すことが重要である。
どういうことか。
未来にNO1であるということは現在もNO1である。
こう思う必要がある。
しかし、未来にNO1でも現在はその力量を手に入れていないわけだから、負けてしまうこともある。
そんなときには
未来のNO1の俺らしくないなと解釈するのだ。
そして現在のNO1ではない改善点をみる。一度だけみる。見すぎてはいけない。
なぜなら、見すぎると現状の自分が強化されてしまうから。
未来のNO1の私はその改善された状態の自分であるはずだ。
今回の体験はそのことに気付くための体験だったんだと解釈する。
ここで未来のゴールの臨場感が増したわけだ。
すなわち未来にNO1である私に一歩近づいたわけだ。
このように、負けたときや調子が悪かったときに、ネガティブな感情が現れた時にはこのように理性的セルフトークにより、感情に介入して、解釈を変える必要がある。
そしてそのときに絶対に未来のゴールのエフィカシーを下げないことだ。
この感情のコントロールができればあなたはすぐにNO1の未来の私に出会うことになるのだ。
スポーツ選手のための苫米地式コーチング
なぜ、このタイトルにしたかというと私がスポーツが大好きだから、そしてプロやオリンピックを目指すためにも苫米地式コーチング理論が非常に役に立つと思ったからだ。
また、私のライフワークとしてスポーツ選手やスポーツの世界で大きな夢を見ている子供たちの応援をすると決めたからだ。
しかし、本来のコーチングとはライフコーチングであることを伝えとかねばならない。
どういうことか?
プロやオリンピックを目指す若者や子供たちにとっては自分の競技の中でパフォーマンスの向上を目指したり、キャリアを上げるための実績を残すことには非常に興味があることだろうと思うし、その協議の中で、パフォーマンスをあげるためにも苫米地式コーチング理論は是非学んでもらいたい。
しかし、スポーツのことだけフォローするのがコーチングではない。
コーチングとはあなたの人生のすべての場面においてフォローすることをいう。巷でスポーツの技術を教える人をコーチと呼ぶがそれはインストラクターであり、本来のコーチとは違う。コーチングとはオールライフコーチングであり、コーチの担当もオールライフなのである。
苫米地式コーチングではバランスホイールという考え方を重視している。
仕事
趣味
家族
健康
生涯教育
老後
地域貢献
お金
など(これらのほかにもいくつあっても構わない)
これらの全てにゴールを掲げてもらっている。
理由はスコトーマをつくらないためと、ゴールの臨場感を増すためだ。
だから、人生におけるあらゆる方面にまんべんなくゴールを設定してください。
意外かもしれないが、職業だけではゴールになりえない。
例えばプロ野球選手になるはゴールにはなり得ない。
どんなプロ野球選手になるのかはゴールになる。
プロ野球選手になって家族を幸せにするとか、プロ野球選手になって社会に貢献するとか、プロ野球選手になることにバランスホイールのすべてが入っている必要がある。
人生の様々な方向性に対して具体的なイメージが加えられてこそ高いエフィカシーも、アファメーションも効果の高いものとなる。
バランスホイールのすべてにゴールをつくる。そしてそれらのゴールを包含した一つ上の抽象度のゴールをつくる。
そしてそれをアファメーションとして作り上げ、毎日唱えることをぜひともやってほしい。
これらを理解して、作り上げたアファメーションがプロスポーツ選手だったり、オリンピックだったりとしたなら、もう一度このブログの理論編を見直してほしい。
そこにあなたの人生の全てが入っているような選手にきっとなれる。
現在はわからないが、一昔前にサッカーにおいてのブラジル人の成功の話はよく耳にした。
貧困層で生まれたブラジル人の子供にとって成功とはサッカーや歌などのごく限られた中での選択だろう。その子供たちにとってプロになるということは夢であり、ゴールであった。スパイクも買えない、ボールも買えない、子供たちにとってこの生活を抜け出して自分も家族も幸せになるためにはサッカーでのし上がることしか考えられないわけだ。そこで成功した選手たちは親に家を買ってあげたり、学校に寄付をしたり、クラブを作ったりといった地域の環境を良くする活動をしたり、もちろん自分もお金持ちになってきれいな女性と結婚したり、と
俺はプロになるというゴールの中には
実は全てが入っている。
ゴールは部分的に自分ひとりで完結しているものではない。
自分とまわりとの関わり合いの中で自らがこうなれば素晴らしいと思うもの全てが含まれた景色のようなものだ。そしてこの臨場感をより鮮明にするために、バランスホイールを考える時間が必要なのだ。
「悔しかったですし、何もできなかった。自分の力のなさをあらためて実感しました。自分の今のレベルが分かったというか……」
10月25日カンプノウ バルサ戦での乾選手の言葉だ。
乾選手は世界最高峰のスペインリーグで活躍しているサッカー選手。
そしてその中で世界のトップとして長年、君臨しているサッカー選手の憧れのクラブ、メッシやネイマールといった世界最高のプレイヤーが活躍するチーム、それがバルセロナ、通称バルサである。
乾選手は子供のころは天才と呼ばれていただろう。
自分よりうまい選手に会うことのほうが難しかったくらいだろう。
僕もサッカーをしていたからよくわかるが技術の高さは群を抜いていたと思う。
しかし、プロになればしのぎを削るライバル達にも出会う。あまりにも簡単に書いてしまうが、その中で高いエフィカシーを維持し続け、世界最高峰リーグのスペインリーグでレギュラーとして活躍するほどになった。
そして対戦相手として本当の世界のトップチームと対戦することができた。
そして上記のコメントだ。
恐らく、打ちのめされた感覚ではないだろうか。登って登って登ってきてようやくたどり着いた山の地点から見た頂上はまだこんなに高いのか!という感覚ではないだろうか。
登ってきた距離よりももっと遠くに思えるような感覚。
苫米地式コーチングでは非常に重要なポイントなので例にあげさせてもらった。
「力のなさを実感した」という言葉
力のなさを実感したということはまだ登る山があるということだ。
絶望するぐらいの山の高さを見たときこそエフィカシーという言葉を思い出す時だと思う。
この山を俺なら、私なら、登ることができる。
この壁を俺なら、私なら、超えることができる。
きっとできる。
高いゴールを見つけた瞬間だ。
ホメオスタシスがずれる瞬間だ。
乾選手はもちろんスポーツ選手の中でも先頭を走っている一人だと思う
しかし、誰でも、一緒だ。。
絶望しそうになった時こそマインドの使い方が問われる時だと思う。
絶望しそうな高い山を見つけた時こそが
ゴールを見つけた時なのかもしれない。
そのゴールを達成することができる能力の自己評価がエフィカシーだ。
絶対にエフィカシーを下げない。
マインドにこのこと刻み込んでほしい。
今回はプロスポーツ選手のエフィカシーについて説明したい。
以前の記事で勝敗や順位をゴールにしてはいけないと述べた。
しかし、プロの世界においてはそんなこと言ってられないのではないかという意見があったので、プロ選手について考えてみようと思う。
プロの世界はファンがいて成り立っている世界であることは周知の事実だろう。ファンとは一般企業ではお客様のことであり、グッズや入場料などの収益源はそのお客様から得ている。
そして、プロ選手はその収益から報酬をもらっているという職業だ。
プロの球団や組織は勝敗や順位によってその収益が変わってくるのだから資本主義のルール、会社のルールに則れば勝つ必要があるし、優勝するために運営しているといってもよい。
だからこそプロ選手は勝てる選手が高い報酬を得ることができる。
当たり前の話である。
ゴールがプロスポーツ選手で、最高額の年棒をもらうんだとうゴールは全然悪くない。
この引く手あまたの勝てるスポーツ選手になるために、勝つことをゴールにしてはいけないというのは、選手として成長していくときに、勝敗にこだわりすぎて自分のパフォーマンスへの成長を阻害しないようにという意味である。
最高額の年棒をもらえる勝てるプロ選手とはこのパフォーマンスが他の選手よりはるかにずば抜けている選手のことである。
24時間365日ずっと自分のパフォーマンスのことだけを考えているのがプロの中のプロ、超プロである。
そして、そんな超プロ選手のエフィカシーとは
勝って当たり前、優勝して当たり前なのである。
勝ちたい、優勝したい、一位になりたいは裏を返せば勝てるかどうかわからないから勝ちたい。優勝できるかどうかわからないから優勝したいわけだ。
当たり前に思うマインドは非常に重要なポイントだ。
確信パワーともいう。
当たり前、確信しているとどうなるか。
ホメオスタシスの説明を以前した。このホメオスタシスが勝つことに働いているとことだ。ホメオスタシスは当たり前、確信しているところに強烈に働き、結果を引っ張ってくる。
負けそうになるとすごいパフォーマンスを発揮してミラクルを起こすことができたり、
ミスをしても、そのあと劇的にパフォーマンスがあがったりする選手を見たことがあると思う。
それはその選手にとってみれば勝つことが当たり前になっているから負けそうになると「なんかおかしい」というマインドの力が働いて元に戻そうとする。これが認知的不協和とも、ホメオスタシスともいうものだ。
いつも楽勝で勝つ相手に偶然が相次いで、リードされてしまったときなどに、スポーツ選手なら誰でも、マインドの中にもわもわと、何らかの高揚を覚える体験をしたことがあるのではないだろうか。
これがホメオスタシスというものであり、勝つという状態に戻そうとする働きのこと。
その力が働いた時には結果的にも本当に勝利してしまう。
プロの世界とは
小学生、中学生、大学生、社会人と常にトップを走ってきた選手であろう。
そしてそのトップを集めたプロの世界で、この勝つというホメオスタシスを維持するというのは並大抵のことではない。
しかし、マインドの世界の中でこのホメオスタシスを維持することに成功し、勝つことなんて当たり前と思える選手を超プロというのだ。
そして、この「俺、私は勝って当たり前」思うマインドをエフィカシーと呼ぶのだ。
思い出してほしい。エフィカシーの定義とはゴールを達成する能力の自己評価のことだった。
勝つことを達成することのできるパフォーマンス能力の自己評価だ。
自己への圧倒的パフォーマンス能力への自己評価、
このエフィカシーがあって
プロ選手にとって至上命題でもある、勝つという選手になることができるのである。
スポーツにとって勝敗はどうでもよい。順位はどうでもよい。
えーと思われただろうか?
ゴール設定で注意してほしい、とても大事なことだ。
勝敗や順位を過剰に意識しすぎるとエフィカシーを下げてしまう。絶対負けないぞと思えば思うほど脳は負けを意識するようになる。勝とうとするればするほど同時に負けを意識していることにもなるのだ。
スポーツをやってればもちろん勝つとうれしい。
しかし、そのうれしいと思うブリーフシステムを一度疑ってみる必要がある。
スポーツを子供のころに我々は学んだ。教えてくれたのは先生や親やコーチや監督と呼ばれる人だっただろう。
その人達から勝つ重要性を叩き込まれている。それは直接的に言われることもあったろうが、無意識的にも徹底的に刷り込まれていると思う。
例えば、負けたらコーチや監督が説教してくる。それを悲しそうに親が眺めている。そしてそんな暗い状況下の中で仲間も申し訳なさそうな雰囲気を醸し出している。
そんなあなたは「あー負けたらだめなんだ」と心に刻み込む。
逆に勝った時にはお祭り騒ぎのようにみんなで楽しんだり、褒めてくれたりしたのではないか。
こんな状況であなたの重要性は
勝つことが善であるという強烈なブリーフシステムの形成をおこなったんではなかろうかとうことだ。
勝負けや順位はスポーツにおいては結果である。
大事なのはゲーム性とその中でいかに超一流クラスのパフォーマンスを発揮できるかということだ。
ゲーム性とは、一定のルールの中でどれだけのパフォーマンスを発揮できるかということ。ゴルフのハンディキャップや野球のプロやアマの区別、各種競技での体重別、年齢制限などを課して、戦う者同士の力の差をあわせて、その中で各々がパフォーマンスを発揮させてゲームとして楽しむことである。
スポーツにおいてのゴールは,勝つことや順位にしてはいけない。
びっくりするかもしれないがいけない。
なぜかというと
先ほども言ったがあなたを超一流アスリートにするためのエフィカシーが下がってしまうからだ。
アファメーションの11のルールの中のひとつにも比較をしないという項目があったことを思い出してほしい。
相手が負けて、自分が勝つとうれしい。は比較、優劣だ。
それはだめ!
ではどうするか
あなたのパフォーマンスに焦点をあてるのだ。
それが今は10秒台だが、9秒台をだしてやるぜ!であったり
どんな緊迫した場面でも焦らず、自分らしいプレーをやり続けるぜ!であったり
と自分のパフォーマンスにおけるゴールを設定してほしいのだ。もちろんコンフォートゾーンの外にね。
サッカーワールドカップブラジル大会でのメッシの活躍を思いだした。
アルゼンチンはベスト4で敗れはしたが、メッシはMVPを獲得した。
僕から見ると、ワールドカップという大舞台にも関わらず、メッシは常にリラックスを続けてプレーしたように見えた。メッシは普段から運動量は抜群に少ないのだが、あんな大舞台で、他の選手が命をかけてプレーしているような状況を間近でみながらも、ひょうひょうとのんびり、プレーしていたようにみえた。
メッシのこころのうちは知らないが、どんな状況下でも影響を受けず最高のパフォーマンスをするための選択ができるというのは超一流の証だろう。
あなたのゴール設定に勝敗や順位を持ち込むのはやめてほしい。
あなたのパフォーマンス、チームのパフォーマンス
これを超人級にしたときに、勝敗や順位は結果としてついてくると思ってください。
人はゴールを設定しなければどうなるのか。
時間は未来から過去へと流れている。未来からどんどん押し寄せてくる出来事たちの中で、我々の認識とは重要であることだけを拾い出して生きている。
ゴールを持っているということは未来の方向をむいているということだ。
川で例えると、川上を見ている状態がゴールがある状態。未来を見据え、チャンスが流れてきたときには適格に拾っていくことができる。
ゴールがない状態とは、川下を見ている状態のことだ。過去のことばかり気にしている状態だ。過去をみていて未来から流れてくるチャンスを拾うことができるだろうか。みつけたときにはすでに流され遠ざかっていっているのだからチャンスはつかめない。
ゴールを設定するからこそ成功ができるという意味は、未来を見据えているからこそチャンスが拾えるともいえる。
逆にゴールがないとは現状が続いていくということだ。現状のゲシュタルトは過去の記憶でできているのだから、現状のまま生きるとは過去を生きているということができるのではないか。
また魚が陸に上がった話をする。
陸にあがった魚がいたように深海にもぐった魚がいたはずだ。その魚は深海魚となる道を選んだ。
光も少ない、餌も少ない、暗い世界、その中で生きるという選択をした魚。
僕から見るとゴールのない世界とは少しずつ、少しずつ、深海にもぐっている人生に見える。もちろんどちらがいい、悪いというつもりはないのだが。
僕はゴールのある人生を望むし、ゴールのある人生を望む方のお手伝いをしたいと思っている。
ルー・タイスが教えてくれた言葉に
it’s my choise
がある。
ゴールを持たず現状を生きる道もit’s my choise
未来にゴールを設定して生きる道もit’s my choise
またどんなゴールにするか、すべてit’s my choise
そんなあなたを心から応援することが僕のit’s my choiseだ。
過去の出来事、環境、年齢、など一切関係ない。誰であろうとゴールを持つことはできる。今から、でっかいゴールを持つ気になってくれたとしたら幸いだ。
亡きルー・タイスの多くの言葉に感謝を込めて。
今日はゴール設定について。
ゴールはコンフォートゾーンの外側に設定することの重要性は嫌というほど言ってきたつもりだ。
だが、まだ言う(^-^)
魚が陸にあがることを進化と呼び、陸のことをコンフォートゾーンの外と呼んだ。
現実的に考えてみると、苦しいところになぜ行かないといけないんだ?と思う人もいるだろう。
そこのところを突っ込んで考えてみたい。
魚達の世界、海の中でライバルの魚も増え、その分餌にありつける頻度も減り、しかも自分を食べようとする魚も増え、しかもそいつ達もまた、飢えている世界があった。
毎日が食うか食われるかの世界だ。
その分大量に子孫を残そうと試みるが、ほとんどが卵からかえることもなく、食われていく。そして何とか卵からかえったとしても、稚魚の段階で食われていく。そして命からがら成長を遂げたとしても、大きな魚の大群に食われていく。
もう、やってられるか!!
という魚がいたとしよう。
この魚が陸を見た。
すると陸にはライバルもいない!餌もたくさんある!こんなパラダイスのような世界に住めたらどんなに素晴らしいかと思った。
コンフォートゾーンの外の世界とは慣れ親しんだ世界ではないので、緊張もするし、勇気もいるし、恐怖もある。そんな世界になぜ行きたいのか?
それはもちろん自分が行きたいからだ。
おわかりだろうか?
ゴールというのはあなたが心から望んだこうあれば超うれしい、楽しい、誇らしい、という感情を伴った世界のことである。
我々は幼少のころから努力を美徳とし育てられてきた。そしてHAVE TO(しなければならない)ですることを当たり前として受け入れてきた。そんな人がコンフォートゾーンの外のゴールと言われると努力を死ぬほどする世界、HAVE TOなことを死ぬほどする世界のビジョンが出ることがある。
そんなゴール嫌に決まっている。
ゴールはあなた自身が心からうれしい、楽しい、気持ち良い、ハッピーと思えるもののことだ。
だからこそゴールを達成したいのだ。
先ほどの魚も陸の世界が超ハッピーな世界に思えたから、ゴールを設定することを望んだのだ。
その結果が
うー苦しい!呼吸ができない!という出来事が起こり、このままではだめだ!なんとかしなければ陸に行けない!という問題が生まれ、そこで俺にはできるというエフィカシーにより肺呼吸という進化を生んだのだという順序を理解してほしいのだ。
まず、ゴールはあなたが感情を含めて心からハッピーと思える世界のこと。
そしてそれに向かっている最中が全て苦しくないことでなないということ。
そして、その苦しい姿をはたから見ていると、あんなしんどいことして努力家ねと思われるかもしれないが、当の本人は努力でもなんでもないということ。
つまり。ゴールを達成したいときにやることは楽しかろうが、苦しかろうがすべてがWANT TOであるということ。
今回はここを理解してほしかった。
そして付け加えると
なぜゴールが設定されたかというと魚は現状に不満を持ったからだった。
現状への不満こそがゴール設定へのヒントとなることを知っておいてほしい。
だからこそ現状への不満は大いに結構なのだ。
やってられるか!!と言ったあの魚だけが進化の道を遂げるのである。
アファメーションを毎日書くことがなぜ重要なのか、そのことを考えるために
・アファメーションの重要性
・アファメーションを毎日唱えることの重要性
・アファメーションを書く重要性
この3つに分けて考えたいと思う。
まず、アファメーションの重要性はといえば、脳に現状のゲシュタルトを選択させずにゴールのゲシュタルトを選択させるために非常に効果的だからだ。言い換えるとゴールを達成するための一番の早道だからだ。
ルー・タイスの理論によれば、脳は一つのゲシュタルトしか維持することができない。そのゲシュタルトといえば通常は過去の積み重ねの現状というゲシュタルトが選ばれる。我々が何か夢をかなえたい。目標を達成したい。変わりたいと思った時に夢がかなわない、変わらないのはこの過去の積み重ねの現状というゲシュタルトが維持されてしまっているからだ。この現状を維持するというパワーは強烈で、強烈にもとに戻ろうとするホメオスタシスが働いているから。このホメオスタシスは生命が生きながらえるための機能でもあるので強烈なのは当然といえば当然といえる。
セルフコーチングにしても、パーソナルコーチングにしてもこの現状VSゴールのゲシュタルトの選択の戦いにおいてゴールのゲシュタルトが選択させなければゴール達成することができない。つまり強烈な現状維持のパワーに打ち勝たなければならない。
その方法論の代表がアファメーションといえる。
アファメーションという用語のほかにもセルフトークのコントロールや、ヴィジュアライゼーションといった方法論があるが、これらを機能させるためにアファメーションが必要である。
例えば、すべてのセルフトークのコントロールは無意識を含めて考えるとコントロールするのは大変だ。実質アファメーションだけが自分をコントロールできる唯一の手段であるといえると思う。これらのことからアファメーションがゴール達成において重要な要因であるといえるだろう。
次に毎日唱えることの重要性だが、アファメーションは唱える回数が多ければ多いほど達成するスピードはあがるとルー・タイスは言っている。だから、毎日唱えるということは達成するスピードをあげることになるのだ。
ルー・タイスも最低朝晩2回が望ましい。できれば5回唱えるとよい。と言っているので、毎日何回でも、多ければ多いほどよいといえるだろう。
理論的には先ほど述べたようにやればやるほど、現状維持のゲシュタルトに代わって、未来のゴールを達成している状態を現実だと認識しやすくなる。このことが毎日(なるべく多く)唱えることが重要な理由だ。
最後にアファメーションを書くことの重要性を考えたいと思う。書く
ということはその作業を通じて自分のアファメーションを見直すことにもつながることになると思うので、⑧の「記述の精度を上げる」ということが大きな利点であるといえる。
また、書くという行為そのものが古来の、写経のような心を落ち着ける、瞑想のような効果があるようにも感じる。アファメーションを書くということは瞑想状態の中でゴールのイメージを徹底的につくりあげていくことに繋がるのではないだろうか。
アファメーションを毎日書くことによりゴールのゲシュタルトが選択され、ゴールが達成される。アファメーションの機能を最大限に引き上げることができるのである。