包摂半順序束のトップが空であるという説明をした。
そして自我は宇宙に対して自分を頂点とした重要性の順番で並んだ部分関数だという話もした。
情報量の大小で並べた順序集合のトップも空なら、自我という頂点も空である。
これがこの世も空だし、自我も空であるということなのである。もう少し簡単にいうとこの世は幻想であり、これが私だと強烈に思っているような私はあるとも言えるしないともいえるような空なる存在であるということだ。
この話は我々にどんなインパクトを与えるのだろう?そんなことを考えてみたい。
仏教の出家者やよほどの哲学好きでないかぎり、空のことなんか考えたことはないかもしれない。しかし、古来から人間の意識を考えてきた賢人たちのふるいにかけられ残ってきた空という概念は我々に大きな気づきを与えてくれるはずだ。
結論から言うと苫米地理論というか苫米地博士の教えでは中観で生きるために空という概念を知った上でこの世界を認識するこの世の見方すなわち空観が欠かせないといっている。中観とは空観をわかったうえで仮であるこの世界(仮観)を全力で生きる生き方こそが現代に生きる我々の最高の指針であるということだ。
その意味でも空は徹底的に知る必要がある。まずはこのことを頭の隅にでも置いておいてほしい。
ただ中観の話は違う機会にするとしてコーチングにおける空という概念の重要性をここでは考えてみる。
コーチングにおいてもゴールの臨場感をイメージするうえでも空という概念はとても役に立つと思っている。なぜならゴールが達成されないのは現状のホメオスタシスが強くて引き戻されてしまうからという理論があったことを思い出してほしい。その時にゴールの臨場感を強力にするには現状という世界そのものが幻想であるという意識を持てば、なんだ、同じ幻想ならゴールが達成された方がいいじゃんと無意識も思いやすいということだ。
みんな誰でも現状に対して強烈なリアリティを持っている。その強烈なリアリティとはこの世界が幻想ではないというリアリティである。
悩みがあるとする。悩みがあると思っているから悩んでいるのだから、つまり悩みなんて幻想だなんて思っていないということだ。
世界が空であり、自我も空である。
しかし、空である世界も自我も自分が作り出しているのも事実だ。現状もゴールも自分が作り出した空なる世界、幻想の世界だからこそ、無意識はゴールを選択できるのだと思う。
いかにこの世は自分が作り上げた空なる世界と思えるかどうか。
コーチングにおいても、自由に楽しく生きるというテーマにおいても非常に重要な概念である。
4回にわたって苫米地博士の言葉を借りて形式定義をやってきた。
みなさん、だから何やねん!と思っているかもしれない。
実際、周りでも面白くないなどと言われた。
だから、何のために、結局何が言いたかったのかをこれから説明していこうと思う。
古来から人々は悩み、苦しみ、変わりたいと思いながら生きてきたと思う。そして多くの人が過去にどうすれば人は幸せに生きれるのかを考えてきただろう。
そして、偉大な哲学者や宗教者、それに数学者、物理学者、芸術家を生み出してきた。
私は苫米地博士もその一人だと思っているので、熱心に学ばせてもらっている。
2600年前に釈迦が悟ったとされている。そして悟った内容が空というわけだ。そしたらみんなが空ってなんですか?と釈迦に聞きたかったのだと思うが、釈迦は空については語らず、縁起という説明原理を説いたとされている。空は説明することは難しく、縁起という説明原理を通して空にたどり着いてもらいたかったのだろう。しかし釈迦は月を指さして、月(空)を見よ。指している指(縁起)を見るなと言っている。つまりみんなに説明原理の方ではなく、空の体感こそが悟りであると伝えたかったのだ。
現代科学では、相対性理論から量子論の時代になり、ひも理論の時代になった。この現代でも釈迦が悟って教えたかった空というものが量子論やひも理論の帰結と同じであるとのことから空という概念は改めて注目されるようにもなった。
それほど貴重な空という概念。
だからこそ我々は空という概念を知り、そして体感できるようになる必要性を感じるはずなのである。
現代では空を悟るのは誰でもできる時代になったと苫米地博士は語っている。
空を悟ったうえでどうやって生きるのかが問われるということだ。
だからまずは空という概念を徹底的にマスターしようということで、形式定義から入ってみた。
形式定義はなんとなくそんなもんねーとして捉えてくれたらいいです。正直私も、数学や哲学のプロフェッショナルじゃないので深い知識は持ってません。
しかし、大切なエッセンスはここからきちんとつかんでもらいたいと思っている。
続く
苫米地博士の宇宙の形式定義をしたうえで、今回は空の形式定義をやっていこうと思います。
包摂半順序束の宇宙において任意のふたつの概念もしくは存在をとりだします。
その二つの概念もしくは存在のGLBをbottomといいます。
そしてその二つの概念もしくは存在のLUBをtopといいます。
包摂半順序束の宇宙のbottomとはなんでしょうか?
これを現代分析哲学では矛盾と定義します。
そして包摂半順序束の宇宙のtopのことを空と定義するのです。
例えば、ペンと犬という二つの存在をとりだして、そのふたつの下位概念を考えます。ペンなのにワンと鳴く存在。ワンと鳴くのに書くことができる存在です。これを矛盾と表現するということです。下位概念の内のもっとも下位にあるものを矛盾というのです。
またペンと犬の上位概念はどうでしょうか?
現代分析哲学ではこれはいくらでもあるので特定の概念が存在しないとされているようです。
しかし、苫米地博士は東洋の仏教哲学を使って、これを空と定義すると言います。
空とは宇宙の何よりも上位であり情報量の少ないもの。
包摂半順序束のtopであり、宇宙の全てを潜在的に内包しているものとして、定義しているのです。
前回宇宙の概念は包摂半順序という説明をしました。
今回は束という数理モデルで宇宙の定義を拡張します。
順序集合において、任意の二つの要素をとりだして、共通の上位にあるものをUpper Bound、日本語で上界といいます。そしてUpper Boundの内で最も下位にあるものをLUB(Least Upper Bound)最小上界といいます。
<犬、猫、動物>という半順序集合があったとき、犬と猫の任意の二つの上位概念は動物です。
ですからこの場合は動物がUpper Boundであり、LUBとなります。
反対に任意のふたつの要素をとりだして、共通の下位にあるものをLower Bound、日本語で下界といいます。そしてLower Boundの内で最も上位にあるものをGLB(Greatest Lower Bound)最大下界といいます。
<シュナウザー、犬、ペット>という順序集合があったとき、情報量の大小で見て、ペットと犬の任意の二つの下位概念はシュナウザーですから、この場合、シュナウザーがLower Boundであり、GLBとなります。
このように順序集合もしくは半順序集合の内でLUBかGLBのどちらかもしくは両方が最低一つはある順序集合のことを、束といいます。
宇宙は包摂半順序集合であると定義しましたが、宇宙の概念にはLUBとGLBがありますので宇宙は包摂半順序束であると定義することができるということです。
宇宙と言えば、地球や太陽や銀河系やなどといったイメージがわくかもしれません。
しかし、ここで定義しようとする宇宙はそのような宇宙を含んだ、我々の脳内で認識されたすべての概念のことです。
地球や太陽といった宇宙は物理宇宙。苫米地理論において定義しようとする宇宙は情報空間にも無限に広がっていますので、一番低い抽象度の宇宙が物理宇宙で概念となって無限に広がる情報宇宙までの形式的定義です。
というか、認知科学においては物理宇宙も情報宇宙もどちらも結局は脳内で情報処理されて認識されたものであるという点において内部表現という言い方をし、同じものとしてみなします。
ですから物理宇宙から情報宇宙までの宇宙の定義としてとらえてください。
これを包摂半順序という集合論という数理モデルを使って説明します。
包摂順序とは情報量の大小で並べられた上位、下位の関係のことをいいます。抽象度は高くなればなるほど情報量が減っていき、低くなるほど情報量は増えていきます。
ただし、抽象度が高くなればなるほど情報量は少なくなりまが、そこに入っている潜在的な情報量は多くなっています。
例えば(ブルドッグ、犬、哺乳類、生物、有機物)とどんどん抽象度をあげていくとブルドッグの情報量よりも有機物の情報量のほうが少なくなるのですが、有機物は生物も哺乳類も犬もブルドッグもフォルダに入っているので潜在的な情報量は多くなるというのはこのような意味です。
そして半順序というのは自然数を並べた時に(1,2,3,4,5・・・・・・・)ときちんと並べることができる完全集合という意味に対して、中にあいまいな要素があり、どちらともいえないようなものも含むがだいたい並べることができる集合を半順序と言います。
ブルドッグの例でいえば、(ブルドッグ、犬、猫、ペット・・・)と並んでいた場合に情報量の大小で並んでいるのかな。でも犬と猫ってどちらが上かな。みたいな集合です。
我々の認識の宇宙は情報量の大小で並べられた半順序集合であるというわけです。
そして次の束論のはなしとつながっていきます。
苫米地理論における自我の定義
自我とは宇宙の中から自分を定義する部分関数である。
宇宙に自我という関数を入力すれば私が出力されるということです。
これと同じ表現をして例えるなら自然数における偶数という概念があります。
自然数に偶数という関数を入力すれば(2,4,6,8,10・・・)が出力されるのと同じです。
では、自我という部分関数の中身とはなんなのか?
それは私にとっての重要性で並べられた情報のことです。
私は兵庫県に住んでいて、親はだれだれで、兄弟は何人で、好きな食べ物は何で、どこどこの学校出身でなどと、私を定義する情報のネットワークを自分にとって重要な順番に並べ替えます。
そして例えば、好きな食べ物がプリンだったとしたら、プリンという情報のネットワークもまた多数存在し、そのネットワークは無限に広がっていきます。
その無限のネットワークの中で、自分にとって重要な順番に並べられた情報の中心点が自我ということになるのです。
自我の説明を試みた時に、自分にとって重要な情報をあげることはできますが、自我自体の説明をすることができるでしょうか。これが自我が点と同じようなものであるといわれるゆえんです。
ユークリッド幾何学の定義における、円に対しての中心点とは面積のないものです。ですから、これ!といた存在をとりだすことができません。
また同じく、線分の端にしても存在していることは間違いないのですが、線分の定義は幅がないのですから、これ!とその存在をとりだすことはできないのです。
ですから、同じように自我もとりだすことのできるようなこれ!といったものがなくただ自我という中心点に向かって重要性の順でならんだ情報の集まりであるといえるわけです。
プロスポーツ選手やオリンピックでメダルを目指す選手は果たして、そのスポーツを楽しめているのだろうか?
そんなことを考えてみたい。
まず、プロはファンのために勝つことが要求されるし、楽しんでいたのではすぐにクビになってしまうかもしれない。年棒に見合った成績をあげる必要がある。楽しむことよりも重要なことがあるのがプロの世界だろう。
オリンピックのメダルを目指している選手にしても、心、技、体と徹底的に鍛え上げた人々の中でその頂点にいこうとするのだから、楽しむなんていってはいられない世界だろう。
好きではじめたその競技がいつのまにか楽しむことからかけ離れた世界に連れて行かれる。そんな体験をしている選手が多くいるのではないか。
スポーツというものはそのゲーム性を楽しむものである。
だからこそ、体重別、や年齢別、性別、プロとアマ、などに分けて公平性を維持しているのだ。
不公平な競技なんてやっていてもおもしろくない。
私が小学生にサッカーを教えていたときがあった。小学生同士の試合の中で人数が足りないということでコーチが入ったりすると突然子供たちはやる気をなくす。低学年の試合に高学年がはいってもぶーたれて、やる気をなくしたりする。
子供ながらに公平性を保てなくなったゲームは敏感に感じ取り、面白さを感じなくなるようだった。
逆にこんなケースもあった。私が子供のころ近所の公園で、野球をしていると隣で野球をしているグループに試合を持ちかけることがあった。私たちは小学5年の友達と二人、相手は小学6年二人、小学4年三人、2対5の試合だ。しかし、なんとなくの力量からちょうどいい勝負ができていた。双方が楽しめていたのだと思う。
こんな遊びからもっとゲーム性を高めたほうがおもしろいとう発想から、審判がついたり、人数を合わせたり、コートの大きさを統一したり、大会を開催したりとなっていったのが今のスポーツだ。
あくまでも、公平性を維持した中でゲーム性を楽しむものがスポーツである。
プロ選手はファイナンスという目的でのスポーツをしているという要素が加わる。
それはやっている側が主役なのではなく、見ているファンが主役な場である。それはお金を払う側の期待にこたえるという職業だからだ。
ファイナンスという観点からは確かに選手がスポーツを楽しむということができないかもしれない。
しかし、ここで何度も超一流アスリートになるための方法論を示しているが
スポーツが楽しいことでななく、義務感になるとパフォーマンスとしてのその能力が一気になくなってしまう。
プロフェッショナルな世界に身をおいたスポーツ選手とはもともとは、天才などとよばれた存在で、あまりにもすごすぎて、その技量はこのステージでは不公平だよなという感じで、次のステージ、次のステージと活躍する場を高いステージにあげてきた人たちであり、
あくまでも自分と同じぐらいの相手と戦ったほうが楽しいというスポーツ本来の公平性を維持している世界だ。
そこに職業になった点で、ファイナンスという観点がはいり、楽しさを維持することができなくなったような気がするかもしれないが、
そこで自分の全力を尽くして相手との戦いに勝つことや自分の演技を披露することは今でも楽しいことだと思う。
スポーツにおいて感情のコントロールが重要であることは誰でも知っていると思う。
そのあたりを具体的に考えてみよう。
負けて悔しいという感情はどうだろう?
私はNO1の選手なのだというホメオスタシスを維持していれば、もし負けたら、NO1ではないじゃないかというブリーフシステムの葛藤がおきる。
その葛藤が感情となって現れる。
悔しさが現れたり、絶望感が現れたり、挫折感、恐怖感
NO1であるという自己イメージとともに常にそうではないのかもしれないという状況になるのはよく考えてみると当たり前だ。
NO1であるという自己イメージは未来のものである。
未来にNO1であればよいのだ。
そして未来のNO1の道を登っていくときに連戦連勝というわけにはいかないのは当然だ。
そのときには必ずいろいろな感情が押し寄せる。
感情は比較的古い脳が活性化した状態なので、理性という比較的進化した脳を使って、この問題を解釈し直すことが重要である。
どういうことか。
未来にNO1であるということは現在もNO1である。
こう思う必要がある。
しかし、未来にNO1でも現在はその力量を手に入れていないわけだから、負けてしまうこともある。
そんなときには
未来のNO1の俺らしくないなと解釈するのだ。
そして現在のNO1ではない改善点をみる。一度だけみる。見すぎてはいけない。
なぜなら、見すぎると現状の自分が強化されてしまうから。
未来のNO1の私はその改善された状態の自分であるはずだ。
今回の体験はそのことに気付くための体験だったんだと解釈する。
ここで未来のゴールの臨場感が増したわけだ。
すなわち未来にNO1である私に一歩近づいたわけだ。
このように、負けたときや調子が悪かったときに、ネガティブな感情が現れた時にはこのように理性的セルフトークにより、感情に介入して、解釈を変える必要がある。
そしてそのときに絶対に未来のゴールのエフィカシーを下げないことだ。
この感情のコントロールができればあなたはすぐにNO1の未来の私に出会うことになるのだ。
スポーツ選手のための苫米地式コーチング
なぜ、このタイトルにしたかというと私がスポーツが大好きだから、そしてプロやオリンピックを目指すためにも苫米地式コーチング理論が非常に役に立つと思ったからだ。
また、私のライフワークとしてスポーツ選手やスポーツの世界で大きな夢を見ている子供たちの応援をすると決めたからだ。
しかし、本来のコーチングとはライフコーチングであることを伝えとかねばならない。
どういうことか?
プロやオリンピックを目指す若者や子供たちにとっては自分の競技の中でパフォーマンスの向上を目指したり、キャリアを上げるための実績を残すことには非常に興味があることだろうと思うし、その協議の中で、パフォーマンスをあげるためにも苫米地式コーチング理論は是非学んでもらいたい。
しかし、スポーツのことだけフォローするのがコーチングではない。
コーチングとはあなたの人生のすべての場面においてフォローすることをいう。巷でスポーツの技術を教える人をコーチと呼ぶがそれはインストラクターであり、本来のコーチとは違う。コーチングとはオールライフコーチングであり、コーチの担当もオールライフなのである。
苫米地式コーチングではバランスホイールという考え方を重視している。
仕事
趣味
家族
健康
生涯教育
老後
地域貢献
お金
など(これらのほかにもいくつあっても構わない)
これらの全てにゴールを掲げてもらっている。
理由はスコトーマをつくらないためと、ゴールの臨場感を増すためだ。
だから、人生におけるあらゆる方面にまんべんなくゴールを設定してください。
意外かもしれないが、職業だけではゴールになりえない。
例えばプロ野球選手になるはゴールにはなり得ない。
どんなプロ野球選手になるのかはゴールになる。
プロ野球選手になって家族を幸せにするとか、プロ野球選手になって社会に貢献するとか、プロ野球選手になることにバランスホイールのすべてが入っている必要がある。
人生の様々な方向性に対して具体的なイメージが加えられてこそ高いエフィカシーも、アファメーションも効果の高いものとなる。
バランスホイールのすべてにゴールをつくる。そしてそれらのゴールを包含した一つ上の抽象度のゴールをつくる。
そしてそれをアファメーションとして作り上げ、毎日唱えることをぜひともやってほしい。
これらを理解して、作り上げたアファメーションがプロスポーツ選手だったり、オリンピックだったりとしたなら、もう一度このブログの理論編を見直してほしい。
そこにあなたの人生の全てが入っているような選手にきっとなれる。
現在はわからないが、一昔前にサッカーにおいてのブラジル人の成功の話はよく耳にした。
貧困層で生まれたブラジル人の子供にとって成功とはサッカーや歌などのごく限られた中での選択だろう。その子供たちにとってプロになるということは夢であり、ゴールであった。スパイクも買えない、ボールも買えない、子供たちにとってこの生活を抜け出して自分も家族も幸せになるためにはサッカーでのし上がることしか考えられないわけだ。そこで成功した選手たちは親に家を買ってあげたり、学校に寄付をしたり、クラブを作ったりといった地域の環境を良くする活動をしたり、もちろん自分もお金持ちになってきれいな女性と結婚したり、と
俺はプロになるというゴールの中には
実は全てが入っている。
ゴールは部分的に自分ひとりで完結しているものではない。
自分とまわりとの関わり合いの中で自らがこうなれば素晴らしいと思うもの全てが含まれた景色のようなものだ。そしてこの臨場感をより鮮明にするために、バランスホイールを考える時間が必要なのだ。
「悔しかったですし、何もできなかった。自分の力のなさをあらためて実感しました。自分の今のレベルが分かったというか……」
10月25日カンプノウ バルサ戦での乾選手の言葉だ。
乾選手は世界最高峰のスペインリーグで活躍しているサッカー選手。
そしてその中で世界のトップとして長年、君臨しているサッカー選手の憧れのクラブ、メッシやネイマールといった世界最高のプレイヤーが活躍するチーム、それがバルセロナ、通称バルサである。
乾選手は子供のころは天才と呼ばれていただろう。
自分よりうまい選手に会うことのほうが難しかったくらいだろう。
僕もサッカーをしていたからよくわかるが技術の高さは群を抜いていたと思う。
しかし、プロになればしのぎを削るライバル達にも出会う。あまりにも簡単に書いてしまうが、その中で高いエフィカシーを維持し続け、世界最高峰リーグのスペインリーグでレギュラーとして活躍するほどになった。
そして対戦相手として本当の世界のトップチームと対戦することができた。
そして上記のコメントだ。
恐らく、打ちのめされた感覚ではないだろうか。登って登って登ってきてようやくたどり着いた山の地点から見た頂上はまだこんなに高いのか!という感覚ではないだろうか。
登ってきた距離よりももっと遠くに思えるような感覚。
苫米地式コーチングでは非常に重要なポイントなので例にあげさせてもらった。
「力のなさを実感した」という言葉
力のなさを実感したということはまだ登る山があるということだ。
絶望するぐらいの山の高さを見たときこそエフィカシーという言葉を思い出す時だと思う。
この山を俺なら、私なら、登ることができる。
この壁を俺なら、私なら、超えることができる。
きっとできる。
高いゴールを見つけた瞬間だ。
ホメオスタシスがずれる瞬間だ。
乾選手はもちろんスポーツ選手の中でも先頭を走っている一人だと思う
しかし、誰でも、一緒だ。。
絶望しそうになった時こそマインドの使い方が問われる時だと思う。
絶望しそうな高い山を見つけた時こそが
ゴールを見つけた時なのかもしれない。
そのゴールを達成することができる能力の自己評価がエフィカシーだ。
絶対にエフィカシーを下げない。
マインドにこのこと刻み込んでほしい。